シスターコンプレックス
第四章 (今日は新しい友達ができた! それもひとつ年上の格好いい先輩で、水泳まで教えてもらっちゃった!!) 日記帳の上で亜美の文字は躍っていた。それもそのはず、暇つぶしにずっと書き続けてきた日記のほとんどのページは(今日は特にいいことなし)という、寂しい決まり文句で埋め尽くされていたから。 亜美にとって、小遣いでは手に入らない楽しいこと、が起きるのは本当に久しぶりだった。 (クラスにもあんなに話せる友達いないのに、どうして先輩だと平気なんだろう?) 自問しながらも、答えは薄々わかっていた。自分が心を開かなければ、誰かと友達になんてなれないのだ。 中学受験に失敗したあの日、心の隅にできた闇はゆっくりと、でも確実に広がっていった。そこは真っ暗で一人ぼっちだけれど、他人に傷つけられる心配もない。 内側からしか鍵の開けられない風変わりな檻の中でだけ、亜美は自由を謳歌した。 (先輩がプールに初めて現れた時のこと、今でもよく覚えてる。背が高くて逆三角形で、水族館で見たイルカみたいに気持ち良さそうに泳いでた) あまりにレベルが違いすぎて、いつかあの人みたいに、なんて思えなかった。 ただ、ただ見惚れていた。 自分には決して到達できない領域にいる人。そういう意味では、才色兼備を絵に描いたような姉と同じだった。 (でも、先輩とはいつか話せたらいいなって、そう思ってた。家でも学校でもない場所で、知らない人となら友達になれる気がしてたのかな?) 赤の他人の方が話しやすい時もある。知らない相手ならば、最初から自分にマイナス点をつけたりはしない。 けれど、まったく不安がないわけでもなかった。深く知り合ったが為に、結果としてより遠ざかってしまった友達は過去に幾人もいる。 (きっと、今度は大丈夫だよね? 昔と違って、お姉ちゃんとセットじゃないし、私も少しくらいは成長してるはず。胸やおしりだって……」 言いながら両手で胸に触れてみる。確かに前よりは大きくなった気もするが、体育の着替えの時にクラスメイトと比べると、自分がいかにつるぺたか思い知らされて、相変わらず肩身は狭い。 ましてビールメーカーのポスターみたいなスタイルの姉を思えば、本当に血が繋がっているのか、とよく疑いたくなったものだ。 「へ、平気、平気! まだまだ、もう少しは大きくなると思うし、先輩だってもしかしたら小さい方が好みかも……」 なんだか悲しくなってきた。 「そういえば、勢いでひとりエッチなんてしちゃったけれど、やっぱりエッチな娘は嫌いかなぁ? やっぱり、私じゃ駄目かなぁ?」 腕を組んでじっと天井を見上げる。 「ええい、悩んでてもしょうがない。せっかく初詣の約束をしたんだから、チャンスを活かさなきゃ。私の魅力で先輩を虜にしちゃうぞ! 頑張れ亜美!!」 無理やり自分に言い聞かせて、亜美は日記帳を閉じた。初詣の約束については何も書かなかった。裏切られた期待がそのまま残ってしまうのは嫌だから、すでに過ぎ去った一日の中で、大切に仕舞っておきたい想いだけを書き残すと決めていた。 「よしっ! お風呂にしよう!!」 勢い良く勉強机を離れ、部屋を出ようとしてふと立ち止まる。 階下で母親の笑い声がしていた。今日も知らない男の人と一緒だった。 「そう。母さんも変わらないわね。懲りないというか、無節操というか」 二人で作った料理を食べながら、杏子は呆れ顔で言った。 「今日からお店のお客と温泉に行くんだって。三元日あけるまで戻ってこないって」 もうすっかり慣れっこなので、亜美は腹も立たない。杏子お得意のラザニアを口に運んでもぐもぐ咀嚼し、その美味しさに感動しつつ、やっぱり料理でも敵わないのか、とまた勝手にへこんでしまった。 「パパはどうしてる?」 一応訊いてはみたが、だいたいの予想はつく。子供の頃からずっと寡黙な人だった。 怒っていても、何も言わない。離婚する時だって、捺印した離婚届を黙って置いて出ていってしまった。悪いのは自分ではないのに。 「相変わらずよ。几帳面な人だから、炊事洗濯から裁縫まで、なんでも自分でやらないと気が済まないみたい。たまに私が様子を見に行っても、すること無しよ。まあ、離婚前の母さんの気持ち、少しはわかった気がするわ。もちろん、だからといって、弁護する気はさらさらないけどね」 両親が離婚したのは亜美が高校に入った年だった。杏子にご執心の母親は、彼女が期待通りの大学に合格すると、生き甲斐が無くなったから、もう一度働きたいと言い出した。もともと高級クラブのホステスをしていて、店の常連だった父親と知り合い、結婚したらしい。 母親としての仕事は終えたので、もう一花咲かせたいとも言った。亜美については中学受験に失敗した時点で、すべてを諦めたそうだ。 父親は反対のくせに何も言わず、間も無く母親は予想通り、お客と出来てしまった。 あとはお決まりのパターンで、書類上、杏子は父親に、亜美は母親に引き取られる形で離婚が成立した。犬も食わない喧嘩や裁判は無かったけれど、それは不幸中の幸いとは言わないだろう。 「それより、亜美。自分はどうなの? もう少しで二年生も終わりでしょう。勉強の方は頑張ってるみたいだから心配してないけれど、友達とかちゃんとできた? 確か去年会ったときに言ってたわよね。クラスに親しい友達はいないって」 どうしてわざわざそんなことを言ってしまったのか。一年前の自分を思い切り引っ叩いてやりたい気分だった。 杏子もまた、相変わらずという点でなら母親と同じで、あれこれ余計なお節介を焼いてくれる。今日だって、大晦日なのに一人は寂しいだろうから、と泊まりに来るよう誘ってくれた。 心配してくれるのは有り難いし、昔から尊敬もしている。でも、出来すぎた姉というのは、時に目の上のたんこぶだったりするのだ。 明日は大事な約束があるので断ろうとしたのに、結局、断り切れずに来てしまった。 勝負服や下着を詰めたバッグが、かさばるったらありゃしない。 「大丈夫。つい最近、新しい友達ができたの。一つ上の先輩だけど、とてもいい人よ」 本当は内緒にしておくつもりだったのに、未だに友達がいないなんて口惜しいから言ってしまった。でも、ぜんぶは教えてあげない。もし涼が杏子を好きになったら困るから。 「へぇー、すごいじゃない。部活にも入ってないのに、年上の友達ができるなんて。もしかして男の子?」 「ううん、女の人。明日、その人と初詣に行く約束をしてるの」 「ああ、電話で用事があるって言ってたのはそれ。どうりで一泊にしてはバッグが大きいわけね。本当は明日、一緒に初詣行こうかと思ってたんだけど、残念」 杏子は少しがっかりした様子で、亜美の煎れたハーブティーを一口飲んだ。 「ごめんね。でも、お姉ちゃんは誰かと何処かに行かないの? 毎年、年末はお誘いがいっぱいで困ってたよね。今日だって驚いたよ。今まで大晦日に家に居たことなんて無かったじゃない?」 そうなのだ。杏子の回りには男女を問わず、いつも取り巻きができていた。 人づきあいは苦手なので、うらやましいとは思わなかったけれど、杏子が如才なく振る舞えば振る舞うほど、一人でいることの多い自分は何か問題のある子、可哀想な子、という目で見られ、実際、腫れ物のように扱われていた。 「そうだったわね。でも大学に入って合コンやらサークルやらって騒いでいるうちに、いい加減飽きちゃったのよ。今は家庭教師のバイトにすべての力を注いでる感じ」 「家庭教師のバイトまだやってたんだ。そういえばお姉ちゃん、ずっと仕送りもらってないんだもんね。私なんかママからびっくりするくらいお小遣いもらってるのに」 「別に大したことじゃないわ。私が好きでやってるだけなんだから、亜美まで真似する必要ないのよ」 しようとしたって出来はしない。余り豪華とは言えないこのアパートだって、それなりにはする筈で、思い起こせば家庭教師のバイトだけで、どうやって暮らしてきたのか不思議なくらいだ。実力はもちろん、旧帝大の威光もあったればこそだろう。 「生徒はきっと高校三年生だよね。お姉ちゃんがそんなに一生懸命になるってことは、合格はかなり難しいの?」 杏子の家庭教師としての実績はよくよく知っている。これまで志望校に入れなかった生徒は、亜美を除いて皆無のはずだった。 「そうねぇ。今の時点で第一志望はなかなか難しいかな。すべり止めならほぼ間違いなしだけど。でも私が一生懸命なのは、別にそういう理由じゃないの。今までだって一度もいい加減な仕事はしてきていないし」 「なら、どうして?」 「彼は私が初めて受け持った男の子なんだけど、これがなかなか可愛い子でね。そういえば、亜美と同じ学校だったはず。知っているかしら? 印南祐一って三年生」 知らない名前だった。だいたい亜美の知っている三年生は上杉涼ただ一人なのだ。 「ううん、知らない。でも、お姉ちゃんがそんなに言うんだから、すごく格好いい人なんだね」 星の数ほど選択肢のある杏子が、わざわざ教え子に本気になるなんて意外だった。 それも、いつもクールな彼女が、こんなに嬉しそうに話すところを見ると、相当な思い入れを感じる。 「フフフッ、それがそうでもないのよね。どちらかっていうと頼りなくて、放っておけない感じかしら」 珍しくのろける杏子はとても幸せそうで、涼を奪われる心配がなくなったせいか、妹として素直に喜ぶことができた。 「そっか。お姉ちゃんは年下の、それもそういう人が好みなんだ。お姉ちゃん自身がすごくしっかりしてるからかもしれないね。初詣はその印南さんと行ったら良いのに」 「それがね。どうも先約がいるんですって。詳しくは訊かなかったけど、同じ学校の一つ下って言ってたから、亜美と同じ二年生ね」 「ええっ! じゃあ横恋慕!? それとも、二股かけられてるって言った方が正しいのかな?」 「まあ、そうなるわね。でも、今のところはあたま一つ私の方がリードしてるのよ。この先どうなるかはわからないけどね」 簡単には信じられなかった。杏子を天秤にかける高校生がいるだけで驚きなのに、杏子と渡り合う高校生、それも同い年の娘が同じ学校にいるとは、思っていたよりずっと世間は狭くて、その実、恐ろしく深いものらしい。 食事そっちのけで話していたせいで、食べ終わった時にはもう良い時間だった。 こんなに人と話したのは久しぶりで、翌日にデートを控えた緊張も解れてしまった。 迷った末に泊まりにきたのは、やっぱり正解だったのかもしれない。 やがて姉妹で仲良く洗い物を済ませた後、何年かぶりに一緒に入浴しないかと杏子に誘われた。始めはプロポーションが気になりもしたが、お互いライバル関係ではなくなったので、ひと安心して姉と裸の付き合いをしてみることにした。 「あら、胸が大きくなったんじゃない? ずいぶん女らしい身体になってきたわね」 湯船の中から杏子は言った。二人で入るには狭すぎて、交代で洗うしかなかった。 「ほんの少しだけ。私、パパ似だから、もうこのへんでストップかもしれない」 顔も身体も母親似の杏子には、例え豊胸手術をしても追いつけそうに無い。姉妹なのに不公平だ、といつも思っていた。 「そんなことないわよ。もしそうでも、気にする必要なんて無いわ。今のままでも、充分に綺麗よ」 「うん……ありがと」 泡まみれのスポンジで胸を撫でつけながら、亜美は複雑な気分になる。 (でも、やっぱり私、お姉ちゃんみたいに大きな胸が欲しかったな。他の男の人はどうでも良いけれど、もしいつか先輩とそういう関係になったとき、がっかりさせたくないもん) 知り合って間も無いのに、自分でも驚くほど意識していた。これまで男性を避けてきたので、ほとんど免疫が無いせいかもしれない。それともやはり、これはあの初恋とういうやつなのだろうか? 「背中を流してあげる。スポンジ貸しなさい」 そう言って湯船から上がった杏子は、背後に跪いて催促した。 「ええっ!? いいよ、自分でやるから」 「遠慮しないの。こうやっていっしょにお風呂に入るなんて、そうそうないんだから、今日くらい良いでしょう? ね?」 肩の上にあごを乗せ、腋の下から手を伸ばして訊いてくる。鏡の中に二つ顔が並び、似ているところとそうでないところが一目瞭然になった。姉妹なんだから当然だけど、中途半端に似ているぶん余計に厄介だ。 「う、うん……じゃあ、よろしく」 しぶしぶスポンジを渡して、亜美は無意識に両胸を隠す。普段ひとりで入浴しているせいで、例え相手が杏子であっても、身体に触れられるのは抵抗があった。 「そんなに怯えられると、なんだか傷つくわね。亜美は私が恐い?」 「そ、そんなことないっ! 私、そんなつもりじゃ……」 思わず大きな声を出し、それでも足らずに半分ほど振り向いてしまった。 苦手なのは事実としても、決して傷つけたいなんて思っていなかった。 「ええ、私もちょっと言いすぎたわね。ごめんなさい。さあ、前を向いて。でないと背中を流せないわ」 「う、うん……」 元に向き直った亜美は両手を膝の上に置き、背筋を伸ばして胸を張る。 鏡の向うで微笑む笑顔と優しく背中を擦るスポンジが嬉しくて、一方的に距離を置いてきた自分が急に恥かしくなった。 「お姉ちゃん……」 「なあに?」 「その……えっと……ごめんね」 改めて謝られ、杏子は少し困惑したようだ。手を止めて鏡を見つめる。 「別に怒ってなんかいないのよ。そんなに気にしないで」 「そうじゃないの。私、ずっとお姉ちゃんを避けてきたの。覚えてる? 中学受験にぜんぶ失敗したとき」 亜美ははっきり覚えていた。頭の中にこびりついて離れなかったのだ。 「お姉ちゃんは慰めてくれたのに、私、酷いこと言った。パパやママ、それに先生や友達の期待を裏切ったのが恥かしくて、惨めで、それでお姉ちゃんに八つ当たりしたの」 申し訳なくて涙が止まらない。まともに杏子を見れず、掌で顔を被ってしまった。 「馬鹿ね。そんな些細なことをずっと悩んでいたの? 今の今まですっかり忘れてたわ。亜美が私に気を使っているのは感じていたけれど、もっと早く私の方から誤解を解くように努力するべきだったわね」 杏子はいつも完璧で、憎らしいくらい優しい姉だった。 「私、もう一つ謝らなきゃいけない。さっき、新しい友達ができたって言ったけれど、本当は女の人じゃなくて男の先輩なの。その人がお姉ちゃんを好きになったらって思うと恐くて、嘘を吐いたの。私……私……」 もう何を言っていいかわからない。顔を上げる勇気も無かった。すると、背後から伸びた手がそっと腰に巻き付き、背中にぴったりと杏子が寄り添ってきた。 感じる乳房の感触は、女の亜美でもうっとりするほど柔らかくて、濡れたシルクで包み込まれるような抱擁感に、高く波打っていた胸が急速に安らいでいく。 「もう泣かないで。こうしてわかり合えたんだから、それで充分」 泡の乗った肩に、杏子は諭すように頬を擦りつけた。 「それに明日会うっていう男の子も、私にとっては最高のニュースよ。たった一人しかいない妹に、ボーイフレンドができたんだもの。嬉しいに決まってるわ」 自分はなんて馬鹿だったんだろう。亜美はそう思わずにいられなかった。 (お姉ちゃんはこんなに私のことを考えてくれてたのに、私は自分のことしか頭に無かった。勝手に自分を卑下して、どうせ私は……て、いじけてただけなんだ) 狭い檻の鍵を自ら開けて、ようやく広い世界に出られた気がした。自分を哀れむ必要はもうなかった。 「その男の子、名前はなんて言うの?」 「上杉涼さん」 「上杉くん、か。格好いい?」 「うん。すごく」 「フフフッ、なかなか亜美もやるじゃない。もしかして明日、彼を家に呼ぶつもり? たしか母さんはいないのよね?」 そのつもりだった。母親元気で留守がいい、なんて思わないけれど、でも滅多にないチャンスなのは事実だ。 「でも、まだ来てくれるかわからないよ」 「なに言ってるの。来ないわけないじゃない。それより、ちゃんと大掃除はした?」 「バッチリ」 鏡に向って小さくVサインして見せる。 「なら後は……」 そう言って手桶で湯船のお湯を汲み、杏子はざぱんと背中を流した。 「身体を綺麗にしておかなくちゃね」 浴室の隅にあった真珠色の容器から、透明なジェルをたっぷり掌に乗せて広げ、両手で揉み解すように乳房にすりこんでくる。 「ひゃあっ!」 冷たい掌でいきなり胸を触られ、すごく驚いた。 「我慢なさい。これはね、とっておきのローションなの。玉のお肌がもっとつるつるになるわよ」 「お、お姉ちゃん、くすぐったいよ! じ、自分でやるからっ!」 くすぐったいのは半分ほんと。もう半分は恥かしいくらい気持ち良くて、杏子を相手に変な気分になりそうだった。 「遠慮しないの。くすぐったいのは最初だけよ。じきに……フフフッ。いいえ、この硬さだと、もう充分気持ち良くなってるみたいね」 杏子はそっと乳首をつまんで優しくこね回す。慣れた指使いは、亜美の初心な身体から魔法みたいに快感を引き出した。 「え、嘘っ! だめっ、お姉ちゃん! こんなの変だよ! 私たち姉妹なのに……」 「そうよ。私たちは姉妹なんだから、仲良くしないといけないわ。人生と男性経験の先輩として、可愛い妹にレクチャーするのは姉の大事な役目よ」 パンをこねるように散々胸を揉みし抱いた手は、そのまま下に滑って、お腹やウエストを念入りにマッサージしていく。十本の指が生き物みたいに肌を指圧し、温まって良くなった血の流れに乗せて、性の悦びをじわじわと身体に教え込まれているようだった。 「あっ! あんっ!、あうんっ! や、やめてよぉ!!」 「ほら、ここは一番大切な所よ。ちゃんとお手入れしておかなきゃ」 亜美の訴えなどまったく無視して、杏子は次々にレッスンを進めていく。 力いっぱいふとももを閉じてみたものの、みみたぶを軽くしゃぶられただけであっさり緩んでご開帳。だらしなく涎を垂らした下の唇に、指を二本這わされ腰が抜けた。 「やあんっ! そこだめぇ、触っちゃやだぁ!」 「んふふっ、すごいわね。これだけ脚を開いてるのに、ここはぴったり閉じたまま。上杉くんは幸せ者ね」 頭の中はすでにぐちゃぐちゃなのに、好きな相手の名前には脳みそもちゃんと反応する。 「ど、どう……して?」 「ここの締まりが良いと、おちんちんを入れたときにすごく気持ちが良いからよ」 「お、おちんちんって、わ、私、そんなつもりは……」 「ないの?」 「う……」 面と向って訊かれると困る。亜美だってもう十六歳だ。男と女のこと、知らないわけじゃない。でも、だからといって、まだキスもしていない涼とセックスするなんて、余りに早すぎると思う。 それなのに、涼に抱かれ、硬いペニスを胎内深く埋め込まれる想像をすると、どうしようもなく身体が熱くなった。 「いまどき、格好いい男の子はとても貴重よ。まして亜美が好きになるくらいだから、きっと優しい子に決まってる」 粘膜を傷つけないように指の腹を使ってローションを塗りたくり、杏子は乳首にもそうしたように、ぷっくりと膨らんだクリトリスを丁寧に転がした。 「ひんっ!」 悲鳴にも似た喘ぎが鼻を抜け、亜美は慌てて掌で口を塞いだ。 「そんな天然記念物みたいな男の子はあっという間に売り切れてしまうの。そうなる前につばをつけておかないとね」 クリトリスへの愛撫はそのままに、もう一方の指が閉じた肉びらをやんわりと広げ、アーモンド型をした鮮やかなサーモンピンクの膣口を、くすぐるように何度も爪弾く。 とたんにおしっこの漏れそうな快感が、電気みたいにびりびりと股間を揺さぶって、危うく亜美は本当に失禁しそうになった。 「はうぅん! も、漏れちゃう! おしっこ漏れちゃいそう!!」 「さっきはずいぶん飲んでたものね。かまわないから出しちゃいなさい」 杏子は笑ってそう言うが、冗談ではない。お風呂で、それも姉の目の前でお漏らしなんて、出家ものの恥だった。 「そ、そんなのいやぁっ!」 お尻に力を入れて、なんとしても放尿を避けようとする。しかし、杏子の方が一枚も二枚も上手で、力むよりも先に指を尻の谷間に滑りこませていた。 「ああっ!」 「だめだめ。我慢は身体に毒なのよ。それに、ついでだからお尻もお手入れしておきましょうね。もしかしたら、上杉くんに舐めてもらえるかもしれないし」 舐める? お尻を? そんな馬鹿な!? 「そ、そんなとこ、舐めて欲しくなんかないもん!」 涙目になって亜美は反論した。 「馬鹿おっしゃい。ここを舐められるのは、女の最高の悦びじゃない。それだけ相手が自分に夢中になってる証拠なのよ。前は上杉くんに譲るから、後ろは私がいただくわね」 ローションに滑った指はゆっくりと円を描いてアヌスをほぐし、皺の一本一本まで広げながら、やがてくたくたに柔らかくなったところで、その先っぽをつるりと直腸に潜りこませた。 「うっ!」 信じられない悪魔の所業に、亜美はきつくまぶたを閉じ、一転して必死に括約筋を緩ませる。そうしないと、今にもアヌスが裂けてしまいそうで恐かった。 抵抗が収まったのいいことに、杏子はじわじわと確実に指を挿入していき、すぐに根元まですっぽりと埋め込んでしまった。 「ほーら、ぜんぶ入った。どう? 後ろのバージンを失った感想は?」 「あ……う……だめ……で……ちゃう」 もう我慢の限界だった。括約筋を緩ませた為、もはや尿意を抑えるのは不可能になっていた。一瞬の油断が取り返しのつかない結果を招く。 「はぁ……ん……」 絶望の溜息と共に、黄金色の飛沫がふとももを濡らす。体温に温められた液体は火傷しそうに熱く、亜美は軽い絶頂をともなって全身をひくひく震わせると、ぐったりとして杏子に背中を預けた。 「はい、お漏らし完了。溜まっていたものを出すのって気持ち良いでしょう? これが本当のカタルシスってね。ギリシャ語で排泄って意味よ。勉強になるわね」 妹の尻に指を突っ込んだまま、この人は何を言っているのだろう? いつもクールでスマートだった杏子の、もう一つの顔を見てしまい、初めて味わうアヌス責めとオルガスムスの余韻に、ただでさえグロッキー状態の亜美は早くも失神寸前だった。 腰から下は神経を抜き取られたように動かず、背骨ばかりがじくじくと疼く。 浴室に充満した湯気で意識は朦朧となり、少しでも正気を保とうと、金魚のように口を開閉して新鮮な空気を求めた。 「お尻で軽くイっちゃったみたいね。フフフッ、目がとろんとなって。可愛いわよ。せっかく緩くなってるから、このまま中を洗っちゃうわね。中途半端なオルガだったからまだ満足してないでしょ? クリちゃんも一緒に苛めて完全にイカせてあげる」 (もうやめてぇ!) 叫んだつもりも、カラカラの喉から声は出ず、宣言通り尻の中で蠢き始めた触手と、敏感な肉の尖りを恐ろしく的確な愛撫で責め立てる二本の魔指の前に、すでに快楽漬けになっている亜美の身体は、いとも簡単に屈服してしまう。 クリトリスに吹きつける生暖かい春風と、アヌスを抉る熱帯のトルネードが同時に股間を突き抜けて、子宮の中で静まりかけていた欲情の炎を、いま一度激しく燃え上がらせた。 「あうぅっ! あ、あそことお尻がとけちゃうよぉ! 今度はウンチ出ちゃうからやめてぇ!!」 尊敬する姉の腕の中で焦点を失った目を虚ろに開いたまま、亜美は小さな唇の端から涎を流して訴える。もう恥や外聞を気にする余裕はなく、少しでも早く最後の絶頂が訪れ、この悦楽の拷問より解放される瞬間を待ち望む以外に道は無かった。 「大丈夫よ。指で分かるの。中にはまだ何も入ってないから、安心して感じて良いわ。ほら、これはどう? 気持ち良いでしょう? 高校のときはよくクラスの女子と泊まりっこしてね。かなりの評判だったのよ。杏子の指は何で出来てるのって、しょっちゅう言われたわ」 「お、お姉ちゃん、レズビアンだったの!?」 「女の子同士のちょっとした戯れよ。好奇心いっぱいの女子高生にはよくあることね。ほら、私のことはいいから、もうイッちゃいなさい」 そう言って杏子はうなじに舌を這わせ、そのまま舐め上げて耳の裏を丁寧になぞる。 下半身だけでもいっぱいいっぱいなのに、三箇所をいっぺんに責められて、亜美はあっさり臨界点を突破した。 「はあんっ!! も、もう我慢できないよぉ! イっちゃうっ! ああっ、イクぅっ!! お姉ちゃぁん!!」 十六歳とは思えない喘ぎ声が浴室に木霊した。身体の芯がガクガクと痙攣を始め、頭の中で花火が次々に打ち上がっては大輪の華を咲かせる。 未だ体験したことのない快楽のうねりに、内臓の溶け出すような錯覚を覚えた瞬間、身体は宙にふわりと浮いて、足元にぽっかり空いた真っ黒な落とし穴へと、まっさかさまに落ちていく。 (身投げするときって、こんな感じなのかな?) ふと変な疑問が頭に浮かび、すぅーっと意識が遠退いた直後、亜美は座椅子から滑り落ち、杏子に抱かれて眠りについた。 目が覚めると、亜美はベッドに寝かされていた。開け放たれたカーテンからは、朝の光が差しこんでいる。 まるでオナニーに疲れて、そのまま眠ってしまった翌朝みたいに、なんだかとてもすっきりした気分だった。 布団を持ち上げて身体を見たら、家から持ってきたパジャマをちゃんと着ていた。 下着だってこれを使おうって思っていたものをしっかり着けていて、お風呂で杏子にされた淫行は、実はのぼせて倒れた自分が、勝手に見た淫夢だったのではないかと、たった一日前の記憶に自信が持てなくなった。 「おはよう。よく寝たわね。もう十時よ。待ち合わせの時間は大丈夫?」 胸にひよこのマークがプリントされた黄色いエプロンをつけて、キッチンから現れた杏子は両手に皿を持っていた。上にはそれぞれベーコンエッグにレタスにトマト、三角形に切ったトーストが二枚乗っている。 温まったマーガリンの香ばしい匂いが部屋に満ちて、待ち合わせの時間を思い出す前に、ぺったんこのお腹がぐうっ、と鳴った。 「昨日あれだけ食べたのに、朝にはちゃんとお腹が空くみたいね。若いって素晴らしいわ」 テーブルに手早く皿を置いて、杏子はいそいそとキッチンに戻っていく。 前日とは打って変わって、結婚したての新妻のような爽やかさだった。 「はい、コーヒー持ってきたわ。ブラックだから目がさめるわよ。ちょっと遅いけど、朝ご飯にしましょう」 湯気の立ち上るマグカップを二つ手に、後ろ足でガラス戸を閉じた。 「ちょうどいま起こそうと思っていたところなの。上杉くんとは何時に待ち合わせなの?」 「ん〜と、十二時。だから、まだぜんぜん大丈夫」 手の甲で両目をごしごし擦りながら、亜美は答える。待ち合わせ場所はプールの入口で、アパートからの距離を計算に入れても、一時間はかからないはずだった。 「そう。ならゆっくり食べられるわね。先に顔を洗ってらっしゃい」 「はーい」 母親みたいな杏子に言われて洗面所に行くと、前日着ていた服や下着が洗濯機の中でぐるぐる回っていた。すぐ脇の浴室を覗いたら、やっぱり端っこには真珠色の容器が置いてあって、わざわざふたを開けて、中の匂いと身体の匂いを比べてしまう。 「うぅ……同じ匂いがする。お尻……こわれてないかな? 平気かな?」 パジャマの上からさすってみても、取り敢えず痛みは無くて安心した。 顔を洗って口をゆすぎ、髪を解いて結い直す。ついでにトイレに入って、しゃあっ、とやったところ、すっかり忘れていた浴室での放尿を思い出して、ひとりで顔を真っ赤にした。 「お姉ちゃんの……ばか」 リビングに戻ると、杏子はコーヒーを飲みながら呑気にテレビを見ていた。 天気予報によれば、今日は一日、晴れらしい。 「ねえ、お姉ちゃん」 「あら、ようやく見られる顔になったわね」 「あれから私はどうなったの?」 素朴な疑問だった。浴室で途切れたままの記憶をどんなに辿っても、自分で着替えたり、ベッドに入ったりした覚えが無いのだ。 「あれからって、どれから? 何か悪い夢でも……」 「むうっ!」 腰に両手をあてて、怒っちゃうぞっ、と唸って見せる。 「うそうそ、冗談よ。だから、そんな恐い顔しないの」 あれだけやって、笑っていられる杏子の方が、よほど恐かった。 「大変だったのよ。素っ裸の亜美をベッドまで運ぶの。ぜんぜん目を覚まさないんだもの。死んじゃったかと思ったわ」 全裸で引きずられる自分の姿を想像して、亜美は絶望的な気分になる。 「でも、亜美だって気持ち良かったでしょう? それこそ、お・漏・ら・し、しちゃうくらいにね」 立てた人差し指でリズムを刻み、ウインクした杏子に怒りが爆発する。 「ばかぁっ! そういう問題じゃないでしょ!? 私、死ぬほど恥かしかったんだから!!」 そりゃあ、ほんの少しだけ……ううん、ほんとはすごく気持ち良かったけど、でも、だからって許さないんだから! 「今日の予行演習よ。もし大好きな上杉くんに求められたらどうするの?」 「先輩はあんなことしないもん!」 「あら、先輩って呼んでるのね。なんだか青春って感じでいいわぁ」 「話をはぐらかさないで!」 「ま、ちょっとやりすぎたのは謝るわ。亜美と久しぶりに会って、しかも思いがけず仲直りまで出来ちゃったものだから、嬉しくてつい……ね」 最後は申し訳なさそうな顔で情に訴えてくる。子供騙しとわかっていても、そんな顔でそんなこと言われたら、もうこれ以上怒れないではないか。 「ずるいよ、お姉ちゃん」 「まあまあ。ほら、ベーコンエッグ好きだったでしょう? トーストはマーガリンでしっとり。冷めないうちに召し上がれ」 にっこり微笑んでそう言われ、亜美は急に空腹を思い出した。 「べ、別に食べ物に釣られて許すんじゃないからね! またあんなことしたら、姉妹の縁を切るからね!」 何度も念を押してテーブルにつき、フォークとナイフを両手に持ったら、もう怒りは消えていた。なんて簡単にできているのだろう、と少し自分が情けなくなった。 「いただきまぁす」 八つあたりの一太刀でベーコンエッグを真っ二つ。思いきり開いた口に無理やり押しこむと、胡椒がつんと鼻に抜けて、とても美味しいのに涙目になった。 「昔からそうだったけど、亜美は本当に美味しそうに食べるわね。作り甲斐があるし、見ていて気持ちいいわ」 「だって本当に美味しいんだもん。それより、お姉ちゃんは食べないの?」 テーブルに頬杖をついて懐かしそうに話す杏子の前には、マグカップが一つ置いてあるだけだ。 「私のお腹にはまだ昨日の料理が残ってるの。だから遠慮しないで残さず食べてね」 「うん、残さず食べるよ。お姉ちゃんのベーコンエッグ、私大好きだもん」 杏子の料理はいつも美味しかったが、ふだん一人で朝食を食べているぶん、今日は二倍くらい美味しく感じた。 お腹がいっぱいになった後には、杏子に教えてもらって初めてお化粧をした。 そんなにしてまで綺麗に見せたい相手なんかいなかったから、これまで一度もした試しがなかった。 鏡の中で少しずつ変わっていく自分を見て、女は化ける、という言葉の意味をなんとなく理解する。 「これでよし。あとは口紅を引くだけね。それにしても、十六歳で化粧道具を持ってないなんて、ちょっと問題じゃない?」 「なんで?」 理由がさっぱりわからなかった。 「だって……そうね、言われてみればなんでかしらね。亜美の顔をお手入れしてて思ったけれど、若い肌にはまだお化粧なんて要らないのかもしれないわね。すっぴんのままでも充分に綺麗だもの。なんかコンプレックス感じちゃうわ」 「変なの。歳なんて四つしか違わないじゃない。私はお姉ちゃんが羨ましいよ。いつも大人っぽくて格好いいもん」 「フフフッ、ありがとう。でも、四つの違いは大きいわよぉ。二十歳過ぎたら亜美にもわかるかも……と、少し上を向いて、軽く唇を突き出して」 口紅のキャップを開けて待つ杏子に言われ、亜美は顎を引き上げた。 初めて塗る口紅はつるりと唇に気持ち良く、リップを塗るのとはぜんぜん違う高揚感があった。 「お姉ちゃんは、私の歳にはもうお化粧してた?」 「もちろん。私は中学生の頃から、母さんの化粧品を勝手に使ってたの。きっとませていたのね。髪型はどうする?」 解いた髪をブラシで丁寧にすき、指でふわりと広げて杏子は訊いた。 「んー、いつもの」 「それでいいの?」 「うん。お化粧して、ただでさえいつもの私じゃなくなってるのに、髪形まで変えたら、誰だか分からなくなっちゃうよ」 驚く涼の顔も見てみたい気はしたが、どなたですか? という顔をされるのはとても恐くて嫌だった。 「そうね。ポニーテールは亜美のトレードマークだものね。でも、せめてリボンだけでも替えましょう? 私の贈り物を大事にしてくれるのは嬉しいけどね」 真新しい空色のリボンで髪を結い、綺麗な尻尾に仕上げて準備は整った。 「はい、OK! 下着は替えたし、服も化粧も髪型もばっちり。あとは……」 ドレッサーの引出しを開けて、杏子は小さなピンクの紙箱を手渡してきた。 「大好きな先輩に可愛がってもらいなさい」 「なにこれ?」 「もちろんコンドームよ」 「!」 当たり前のように言われ、亜美は絶句する。 「親のいない家に招待するんだから、絶対に必要でしょう?」 「そ、そ、そんなっ! 私……そういう目的で先輩を呼ぶんじゃないもん!」 「そうなの? ざーんねん。でも、備えあれば憂い無しってね。あって困るものじゃなし、持っていきなさいな」 手の中に箱を握らされ、しぶしぶ亜美はポケットにしまった。 「ほら、もうそろそろ出る時間でしょう? 急がなきゃ」 急かされてドレッサーから立ちあがり、ふと振り向いて鏡を見れば、そこにはいつもとほんの少しだけ違う自分が、誇らしげに映っていた。 「あの……お姉ちゃん」 「なあに?」 玄関先で見送る杏子に、どうしても言っておきたいことがある。 「いろいろと、本当にありがとう」 「なによ、急に改まって。今生の別れじゃあるまいし。それに後でちゃんと報告してもらうんだからね。覚悟しておきなさい」 恥かしそうにはにかむ笑顔はやっぱり素敵で、この女の妹で良かった、と心から思った。 「うん、必ず報告するよ。じゃあ、いってくるね」 ぺこりと小さくお辞儀をして、背負ったバッグを担ぎ直す。 「いってらっしゃい。頑張るのよ」 娘を嫁に出す母親みたいな声に後押しされて、亜美は新しい年の澄んだ空気の中へと元気に歩き出した。 元日の街はとても静かだった。正月から開いてもいないプールにやってくる物好きなんてそうはいない。なのに祐一は約束の三十分も前に到着して、亜美が来るのを今か今かと待っていた。 (前のときは待たせちゃってるからな。やっぱり待つのは男の役目だろう) また亜美に男女平等論を説かれそうだと思いながら、今日の予定を考える。 と言っても、別段すごい所に行くわけじゃない。せっかくだから、どこか有名な神社にでも誘おうと思っていたのに、 「先輩はここで生まれ育ったんですから、地元の神様にお願いするのが一番です!」 という、亜美のもっともな意見で、あっさり決まってしまったのだ。 (氷川神社なんてもう何年も行ってないから、ある意味新鮮は新鮮なんだけど……) 氷川神社とは祐一が通った小学校の、裏山の頂きにある今にも崩れそうな神社で、最後に訪れた時の記憶を再現すると、ご利益などとても期待できないくらい、寂れまくっていた気がする。まあ、神様なんて禄に信じていない祐一にとっては、綺麗でも汚くても大した差はなかったが。 (問題はその後だよな。初詣なんてすぐに終わっちゃうし、家には父さんと母さんがいるからな。正月くらいどっか行きゃいいのに……) 日頃、あんたみたいな馬鹿な子には嫁の来てがない、とかおよそ親とは思えない発言をしょっちゅうしている母親を思えば、亜美など連れて帰った日には、そのまま婚約ということにでもなりかねない。何処か落ちついて話せる場所、できれば二人きりになれる場所を考える必要があった。 「うーん、困った……」 腕を組んで目を瞑り、大して容量もないのに、脳内検索をじっくりかける。 「お正月から何を困ってるんですか?」 「そりゃ、どうやって彼女をホテルに連れ込もうか……って、どわっ!!」 慌てて目を開けると、真っ赤な顔で恥かしそうに俯く亜美がいた。 「い、今のは聞かなかったことに……」 「できません」 きっぱり言われて言葉に詰まる。なるほど母親は間違っていない。この時ほど自分が馬鹿であると自覚した試しはなかった。 「もぉっ! やっぱりお姉ちゃんの言う通りなのかな? 先輩も私のお尻を……」 「は?」 「なんでもありません! もう帰りますっ!!」 頭をぶんぶん振って拒絶した亜美はくるりと踵を返し、アスファルトにスニーカーを踏み鳴らして歩き出す。 「ちょっ、ちょっと待ってよ! せっかくの正月だし、ホテルのレストランで昼食でも取ろうじゃないかと、そういう予定を立てていたのさ!!」 やっぱり天才かも? 言い終えた祐一は無節操に思う。これで亜美が納得してくれれば、初詣後の予定もばっちり決まるところだ。 実際、亜美の脚は止まり、振り返って良いか、考えあぐねている様子だった。 「本当ですか? もし嘘だったら、ぐーでぶちますよ?」 背中越しにそう訊かれ、亜美にぐーでぶたれる自分を想像して、それはそれでちょっと良いかもしれない、とマゾヒスティックな感慨に浸ってしまった。 「かまわないよ。もし嘘だったら、ぐーでもぱーでも亜美の好きな手でぶっていい。だから、こっちを向いてくれないか?」 演じるべきキャラクターをようやく思い出した祐一は、怒りんぼうの妹をなだめるような口調で言ってみる。さて、上手く行くだろうか? 「はあ……わかりました。今回は取り合えず信じます」 よっしゃっ! 「でも、今回だけですよ? 先輩は先輩らしく、格好いいままでいてください」 なんだかえらいプレッシャーだった。とにかく彼女の目には、未だ自分が格好いい先輩に見えていると分かり、ほっとする。 「格好いいかどうか、自分じゃわからないけれど約束するよ。で、どう? 昼食の件はOKかな?」 「いいえ、OKじゃありません。昼食は……」 亜美は片脚を振り子に、その場で回って宣言した。 「昼食は私の家で私が作ります。それで問題ないですよね?」 問題など、あるわけがなかった。 曲がりくねった急な石段を亜美は苦も無く上っていく。水中ではともかく、運動神経は悪くないらしい。 神社の建つこの丘は、もともと旧日本軍の掩体壕跡で、かつて麓にぽっかりと口を開けていたコンクリート製の巨大なシェルターには、小学校の頃、よくフェンスを越えて侵入し、懐中電灯を片手に探検ごっこをしたものだ。 出入り口は祐一が卒業する前に埋められてしまい、今は盛り土の丘とその上に建つ、B29の目を誤魔化すための神社だけが、物騒だった時代の名残を残していた。 正月の昼過ぎというのに参道の途中では誰ともすれ違わず、ようやく上り切って、あらかた朱の剥げた鳥居を潜っても、さほど広くない境内に人影は見当たらなかった。 「前にも増してしけてるなぁ。それにこんなに狭かったっけ?」 およそ六年ぶりの参拝に、どうでもいい想い出が次々に蘇ってくる。確かに今も馬鹿だが、あの頃はもっと馬鹿で、毎日なにも考えず、遊んで暮らしていた。 「小さい頃に遊んだ公園とかと一緒ですよ。久しぶりに来ると、大抵の人はそう思うものです」 亜美は少し息を切らして納得させてくれる。 「そういえば、亜美は昔からこの街に住んでるの? まさか麓の小学校に通ってたんじゃないよね?」 彼女ほどの美少女なら、学年は違えど噂のひとつくらいは聞こえてきたはずだ。 中学時代にも覚えはなく、よくよく考えてみれば不思議な話だった。 「ちがいます。高校の入学に合わせて引っ越してきたんです」 「それってやっぱり……」 「ええ、両親が離婚したせいです。離婚そのものは中学三年の頃にもう決まっていて、それで私は、母さんの実家がある、この街の高校を受けたんです」 親の離婚は子供の人生に否応無く影を落す。亜美は笑って話しているけれど、きっといろいろあったに違いない。 「最初はなかなか馴染めなくて、ママを恨んでばかりいました。でも、パパとママが離婚したからこそ出会えたんですよね、私たち」 「ま、まあ……そうなるかな」 口が裂けても、だから良かった、なんて言えなかった。 「そう考えれば、そんなに悪いことばかりじゃなかったと思います。過去よりも現在、現在よりも未来の方が、私にとっては大切ですから」 自分に言い聞かせるように言って、亜美は社へと歩き出す。 小さな背中は何処となく寂しそうで、何か気の利いたひとことを言うべきところだったが、こんなときに限ってろくな言葉が出てこない。黙ったまま後を追い、短い社の階段を上って隣に並ぶと、亜美の方が先に口を開いた。 「ごめんなさい。新年早々、暗くなっちゃって」 「別にいいさ。まあ、生きていれば色々あるし、亜美も僕もまだ子供だからね。自分じゃどうにもならない事の方が多いに決まってる。口惜しいけれど、今は仕方ない」 どんなに大人ぶってみても、誰かの庇護無しに生きていけないうちは、まだ子供なのだと思う。いつも憧れる本当の自由ってやつは、まだまだ遠い。 「かもしれません。だからお願いしますね! 神様!」 亜美は両手でメガホンを作って、社の奥に呼びかける。 「信じてる人しか救ってくれないみたいですから、この際、信じちゃいます。だから……」 短く区切って息を吸いこみ、真っ直ぐ前を向いたまま言葉を吐き出す。 「先輩を必ず合格させてください! それと、大学に行っても、先輩が私を忘れないようにして下さい!」 どちらの願い事も祐一しだいだった。 「さあ、今度は先輩の番です。お願い事をどうぞ」 頭上の巨大な鈴から垂れ下がった紅白の綱を手に掴み、早く早くと亜美は急かすが、願い事なんてなにも用意していない。大会直後の倦怠を思えば、亜美と杏子のお陰で今はパラダイスだ。願い事があるとすれば、それは今の状態が少しでも長く続くこと。 (えー、神様。あなたのことはまったく信じていませんし、これからも信じる気はありませんが、取り敢えず亜美と先生に会わせてくれてありがとうございます。あと、受験など別に落ちてもかまいませんので、その代わり二人とずっといっしょにいさせてください。できたらエッチもしたいです。ひとつよろしく) 心の中で罰当たりな願をかけつつ、別な願いを口にする。 「そうだな。今年一年、亜美が泣いたりせず、幸せに過ごせますように、かな?」 これはこれで重要だった。なにやら彼女はいろいろなものを背負い過ぎている気がする。それが少しでも軽くなればよいと思った。 「それはきっと先輩しだいですね。そんな簡単に泣いたりしませんけど、もしもの時はこの神社に来て、先輩の名前を書いた藁人形に釘を打つことにします」 にこにこ笑って言う亜美が、意外に古風で驚いた。まあ、彼女を泣かすなんて、まったくあり得ない話だが、その時は上杉よ、南無! 「あはは、恐いな。でも、大丈夫。僕はいつでも亜美の味方だから」 「その言葉は本当ですね。ちょうど神様の前ですから、指切りしてもらいますよ?」 片手で綱を握ったまま、もう一方の手の小指を差し出してくる。 「懐かしいな。昔はよくこうやって約束したっけ。で、あっさり約束破ってさ……」 そっと小指を絡めたとたん、これまた懐かしい歌を聴く。 「指切り拳万、嘘ついたら釘十本刺〜さる! 指切った!」 盛大に鈴を鳴らして指を切ると、亜美は社に向き直ってぱんぱんと拍手を打った。 祐一は微妙にアレンジされたリアルな歌に、不吉な予感を感じながら彼女を真似る。 もし約束を破ったら本当に釘を刺されそうな気がした。それも藁人形ではなく額に。 「あ、そうだ! 忘れてました。これ、お約束通り作ってきてたんです」 神聖な儀式の余韻を吹き飛ばすように、亜美がコートのポケットから取り出したのは小さな手縫いのお守りで、扇を模して作られた白い下地に、紅いフェルトを切り抜いて作った合格の文字が縫い付けられていた。 「心をこめて作りましたから、効果満点ですよ」 自信満々に胸を張る亜美の人差し指には、ファンシーな柄の絆創膏が巻かれていた。 「ありがとう。大事にするよ」 祐一は気が付かない振りをして、丁重にお守りを受け取る。もし言ったところで、彼女に気を使わせるだけだと思った。 「受験、頑張ってくださいね。応援してますから」 「任せといて。決めるときは決める男だから」 親指を立て、まったく逆のタイプを演じてみた。なにひとつ根拠は無かったが、雰囲気からして、この場はこう言っておくしかあるまい。 すっかり騙された亜美は喜んで階段を駆け下り、 「腕によりをかけますから帰りましょう」 と言って鳥居に向う。 その背中を追おうとして、祐一はふと何かを忘れている気がした。 「そうか、賽銭」 急いでポケットを漁り、亜美の分と自分の分、合わせて五百円玉二枚を賽銭箱に投げ込んだ。 「奮発したんだから、頼みますよ」 慣れない神頼みに苦笑して、祐一は社を後にした。 「ごちそうさま」 リビングで料理を食べ終えた祐一は、心の中で首を傾げた。 絶対に料理は下手だと思っていたのに、亜美の作ってくれた親子丼は思いがけず美味で驚いてしまった。それも、どうやら始めからそのつもりで準備していてくれたらしく、頭が下がるばかりだ。 「おそまつさまでした。で、どうでしょう? お味のほうは」 判子を押し渋る教官に、捺印を求める教習生みたいな目が、テーブルの向こうから見つめてくる。祐一は、思いがけず、という枕詞を飲みこんで要点だけを伝えた。 「美味しかった。とても」 亜美の顔がぱあっと華やいだ。 「本当ですか!? よかったぁ。身内以外の人に食べてもらうの初めてだったんで、心配だったんです」 安堵と喜びに晴れ渡った笑顔は、見ていて嬉しくなるくらいだったが、なんとなくいつもと違う。何故だろう? 「でも、良かったのかい? 僕ひとりで食べちゃって」 「え、ええ。私、朝ご飯食べるの遅かったから……」 ふたえまぶたはいつもの通り、けれどまぶたの上には薄っすらと影が。また血色の良い頬は真珠の粉末を擦りこんだように白く輝き、小さな桜色の唇は……ん? 桜色? 「どうしたんです? そんなにじろじろ見られると恥かしいんですが……」 「もしかして、お化粧してる?」 ほんのり紅くなった唇が、目の奥にじんわり染み入るような印象だった。 「気付くのが遅いです。会った時からずっとしてましたよ?」 ぷうっと頬を膨らませると、やや大人びた表情が和らいで、とても亜美らしい顔になった。 「ごめん、ごめん。あんまり自然だったから、わからなかったよ。でも、良く似合ってる。なんだか少しお姉さんになったみたいだ」 「……お姉……さん?」 「うん。女子大生って言っても、通用するんじゃないかな?」 清潔だけど、どことなく色気に欠ける。そんなまっさらな木綿にも似た亜美に、ほのかに艶を含んで鈍く輝く絹の装いが加わった感じだ。 「そんなこと言われたの初めてです。なんか……嬉しいな」 照れ笑いを浮かべる亜美につられて、祐一も気恥かしい気分になる。 よくよく考えれば、女の子の家に二人きり。初めての経験だった。 「あ、あの……私、後片付けしますから、先輩は休んでいてください」 慣れない雰囲気に耐えられなくなったのか、その場を誤魔化すように亜美は立ち上がり、どんぶりを盆に乗せて、キッチンへと消えていく。 「あ、ありがとう」 見送る祐一も妙に緊張してしまい、手伝うとは言い出せなかった。 キッチンから水音が聞こえ始めると、ようやく一息ついてあたりを見まわす。 広々としたリビングには値の張りそうな調度品が並び、亜美の母親の経済力や趣味の一端が伺える。 もともと裕福な実家だったのだろう、外観から察するに家自体がかなりの大きさで、母娘二人で暮らすにはちょっと広すぎる気がした。 (うーん、参った。これからどうする? お母さんが出かけてるって聞いて、喜んで来たけど、このままじゃ間が持たないぞ) 夕飯までにはまだかなり時間がある。またどこかに出かけても良いのだが、せっかく家まで来たのだから、何かしら収穫を得たいという気持ちもあった。 そわそわした気分に居ても立ってもいられなくなり、祐一は積極的に行動を起こす。 「ねぇ、亜美。トイレに行きたいんだけど……」 キッチンに向けて話しかけた。 「あ、はい。階段の下がそうです。その向かいが洗面所なので、袋に入っているお客様用の歯ブラシを使ってください」 「ありがとう!」 家主代理の思いがけない許可をもらって、意気揚々と探検を開始する。 とうぜんトイレには入らず洗面所に直行し、時間稼ぎに歯磨きしながらお宅拝見。 洗面所は豪華な浴室につながっていて、すぐ傍らにはあるべきものがあった。 「最新式の洗濯乾燥機か。脱衣籠には何も入っていないから、頼みの綱はこいつだけだな……」 期待するのはもちろん亜美の下着類だ。今日は自分との約束があったのだから、朝起きてから下着を替えているはず。深い読みにほくそ笑んでふたを開け、思い切り間抜け面をさらす羽目になった。 「な……なんで?」 中はきれいに空っぽだった。裏切られた期待に、かなりの精神的ダメージを受けていると、廊下を歩く足音が聞こえてくる。 「やばいっ!」 慌てて洗濯機のふたを閉めて洗面所に立ち戻り、熱心に歯磨きを再開した。 「よかった。わかったんですね」 「うん、ありがとう。使わせてもらってるよ」 やましい気持ちをひた隠しにして、無理に微笑む。 「どういたしまして。これからコーヒーを煎れて持っていきますから、先に部屋で待っててもらえますか? 私の部屋は二階の廊下の突き当たりです」 ついさっきの落胆はどこへやら、次なるチャンスを得て、祐一の胸は高鳴った。 亜美が洗面所を出て行くや否や、大急ぎで口を濯ぎ、音を発てない早歩きで階段を駆け上がる。 (亜美が上がってくるまでが勝負だっ!) いったい何をしにきたのか。異様な興奮に包まれる祐一の精神状態は、今ではほとんど下着泥棒と変わらない。 長い廊下を真っ直ぐ抜けて突き当たりに辿りつき、敵地に潜入する工作員さながらの素早さで、風のようにドアの隙間に滑りこんだ。 「よしっ、ここまでは完璧だ。後は……」 言いかけて祐一は言葉を失う。四畳半の自室と比べて、軽く四倍はあろうかという部屋の広さに圧倒された。しかも、亜美の持ち物はかなり少ない。勉強机にベッドにクローゼット。後は全身を写せそうな鏡が一枚、壁際に置かれているだけで、床暖房の効いたフローリングはその他の面積をまったく占有されていないものだから、部屋はさながら大きな空っぽの箱みたいに見えた。 「いかん。考え込んでる場合じゃなかった」 幸いターゲットは絞られていたので、迷わずクローゼットの引出しを開ける。 今度は期待を裏切られなかった。 「わお!」 つい子供みたいな声が出た。杏子に折檻されたのを完全に忘れ、覗きの次は下着泥と進歩がない。しかし、それも仕方ないかもしれない。目の前には亜美の愛用している色とりどりのランジェリー……というには少々子供っぽいものが多いが、とにかく目移りするような数の下着が詰め込まれているのだ。 どれを手にとって良いか分からず、取り敢えずそのまま引き出しの中に顔を突っ込んで、思い切り深呼吸した。 「はあぁ……」 洗濯石鹸の爽やかな香りに混じって、ほんの少しではあっても亜美の体臭が確実に匂ってくる。まるでオレンジ果汁を溶かしたミルクのような匂いに、脳みそがじーんと麻痺する感覚だった。 (二兎追うものは一兎を得ず) 欲望の縁で大事な格言を思い出し、祐一は即座に顔を上げると発覚を避けるために引出しの一番奥、一番すみにあったショーツの玉に手を伸ばし、緊張でズキズキと痛む下っ腹に力を入れてジーンズのポケットに忍ばせようとした。 (うわっ、入らないよ。どうしよう!?) ショーツは思ったよりもかさばって、窮屈なポケットには収まらない。 上着はリビングに置いてきてしまったので、仕方なくシャツを捲り、腹の中にショーツを隠す。本当はもう一つ二つテイクアウトしたいところだったが、調子に乗るとろくな目に会わない。ぐっと堪えて、そのまま引出しを閉じた。 「ふうっ……」 無事ひと仕事終えた充実感に満足の溜息を漏らす。と、そこへドアの向うから亜美の声がした。 「すみません。開けてもらえますか? 両手が塞がってるんです」 紙一重の任務完了がスリリングな愉悦となって、祐一を歓喜させた。 「ああ。いま開けるから、ちょっと待って」 ドアを開けると、マグカップを乗せた盆を手に、亜美が微笑んでいた。 「ありがとうございます。お待たせしてごめんなさい。なかなかお湯が沸かなくて」 祐一の腹に自分のショーツが隠されているとは露知らず、香ばしい匂いを部屋中に振りまいて入ってくる。折畳式のテーブルを出してコーヒータイムと洒落こんでいても、当たり前ながら、亜美はまったく気付かなかった。 「なんだか不思議な気分です。自分の部屋でこうして先輩とコーヒーを飲んでるなんて。プールで先輩のことを見ながら、話すチャンスなんて、きっと一生無いんだろうなって、思ってましたから」 「それは僕も同じだよ。ポニーテールを揺らして入ってくる、亜美を見て思ったんだ。あんなに可愛い子なら、きっともう彼氏がいるだろうし、第一話しかけるきっかけも勇気もない。できるのは、なるべく同じ曜日に通って、遠くから眺めるくらいだってね」 上杉としてではなく、自分の言葉でそう言った。確かに始めはプラトニックな片想いだったのだ。 けれど、すぐに飽き足らなくなって、欲望のままに亜美を追い掛け始めた。 本当はそんなことをする前に、たったひとこと話しかければ、それで済んだのに。 「それじゃ、私たち。会った時から両想いだったんですね。嘘みたい」 そう、まったく嘘みたいな話だった。おそらく一生に一度もないだろう、奇跡のような偶然を手にしていたのに、それに気付かず破廉恥な行為や嘘を重ねてしまった。 そして今、こうしている間も、腹の中には盗んだショーツが詰め込まれている。 (もしこれを知ったら、亜美は何て言うだろう? それでも僕を好きでいてくれるだろうか?) 都合の良い想像がいくつも浮かんでは消えていく。この場ですべてを白状するのが、いちばん誠実な方法とわかっているのに、それだけはどうしてもできなかった。 「あの……そっちに行っても良いですか?」 床にクッションを置き、テーブルを挟んで話していた亜美が、恐る恐る訊いた。 「えっ! あ、ああ。良いよ」 ベッドに背を向けて座る祐一も、彼女の方からアプローチしてくれたのだと気付く。 「では、お言葉に甘えて」 先にマグカップをこちらによこして立ち上がり、亜美はすぐ横に腰を下ろして、ひとくちコーヒーをすすった。 女の子にばかり負担をかけては申し訳ない。今度は自分の番と、祐一はありったけの勇気を振り絞って手を伸ばし、華奢な肩をそっと抱き寄せた。 「!」 一瞬、びくりと震えた身体はすぐに力を緩め、尻を浮かせてもうひと寄りすると、肩にゆっくり頭を乗せて、体重をかけないように遠慮しながらしな垂れかかってきた。 優しい温もりが腕全体にじんわり伝わり、髪の毛から漂う杏子に良く似たリンスの香りや、香水代わりに匂う甘酸っぱい体臭がなんだか嬉しい。 「私、今、すごく幸せです」 まったく同意見だった。 「もっと……幸せにしてくれますか?」 上目遣いで訊かれ、どうすれば? と言い掛けた時、亜美は静かに瞼を閉じた。 迷っている暇は無かった。彼女は自分を待ってくれている。 深く吸って息を止めた祐一は、狙いを外さないように、ぎりぎりまで顔を近づけて目を瞑り、杏子とのファーストキスを手本におっかなびっくりで唇を重ねた。 「んっ……」 亜美が小さく鼻を鳴らして、暖かい吐息が頬をくすぐる。ほんのりミントの味がする唇は、プリンみたいにツルツルして柔らかく、あたかも、私を離さないで、と言っているようにぴったり吸い付いてきた。 「ふぁ……」 さすがに舌は入れられず、名残惜しく唇を離すと、亜美は恥かしそうに目を伏せて、胸にやんわりすがりついた。 「初めての相手が先輩だなんて、なんだか夢を見てるみたいです。あの、先輩も……初めてだったんですか?」 答えるのが辛い質問だった。正直に言えばもちろんノーだが、果たしてそれで良いのか、判断がつかない。結局、知らぬが仏、と杏子の言葉を都合良く引用して、またひとつ嘘を吐いた。 「僕も……今のが初めてだよ」 日光を浴びた朝顔の微笑みが、胸元で目いっぱいに花開く。 自分を信じて疑わない無垢な瞳に奥歯を噛むと、亜美はピンクの小箱をポケットから取り出し、祐一の手にそっと握らせて囁いた。 「先輩となら、私……平気ですよ」 それは、すべてを受け入れるという少女のメッセージで、祐一は相当の覚悟で返事をしなければならない。 「あ、亜美……僕……僕は……」 千載一遇のチャンスを前に、もう一人の自分が呟いた。 (別人のまま、きみを抱いたりできないよ) 言葉にならない想いを抱えたまま、祐一は黙り込んでしまう。 「あらら、困らせちゃいましたね。私、ちょっと焦りすぎました。いかんせん、男の人とのおつきあいは初めてだから、ペースがよくわからなくて」 無理におどけて亜美は言った。一生に一度の誘いを拒絶されて、ずいぶん傷ついているだろうに、そんな素振りは微塵も見せず、気を使わせまいと作った笑顔が、酷く健気だった。 「僕たちはまだまだこれからだから、二人でゆっくり進めばいいさ」 反吐が出るほど卑怯な台詞だった。けれど、亜美は何故かきょとんとして、やがてクスクス笑い出した。 「ごめんなさい。口紅つけてたのすっかり忘れてました。先輩の唇、真っ赤です」 笑いながら手鏡を取り、どんな顔か見せてくれる。 鏡の中に写っていたのは、血でもすすったみたいに唇を紅くして、嬉しいような悲しいような、困った薄笑いを浮かべる優男の顔だった。 夕飯の誘いを丁寧に断り、祐一は家までふらふらと帰り着いた。 冷やかす母親の声も、右から左と耳を通り抜けて、頭には残らない。 鍵をかけて部屋に閉じ篭り、シャツの中を探ってがっくりとベッドに腰を下ろした。 「……」 出てきた濃紺の布塊を広げてみると、それはショーツなどではなく、亜美が以前に使っていた古い競泳水着だった。どうやら、お役御免と引き出しの奥に仕舞われていたところを、再びお勤め頂いてしまったらしい。 「どうしようもないな。僕ってやつは」 自己嫌悪に浸りながら、憧れの水着を前に我慢もできずクロッチを裏返して、小さな割れ目をずっと守ってきたベージュ色の内張りに、そっと鼻を押し当てる。 擦れて痛んだ内張りからは化学繊維の匂いしかしないのに、亜美とくちづけた時に嗅いだ、甘く切ない体臭を思い出して、祐一は自分の手の中で射精した。 |