シスターコンプレックス
第二章 あの日を境に、亜美はプールに姿を現さなくなった。 想像通りの控え目な性格だったので、他人に迷惑をかけたと気に病んでいるのかもしれない。 もしこのまま彼女がプール通いを止めたら、もう会う機会はなくなってしまう。 そう考えると祐一は、自分と亜美の関係がいかに希薄なものだったか思い知り、無理にでも名前や連絡先を聞いておくんだったと後悔するのだった。 今日も今日とて一人で適当に泳ぎ、受験勉強の待つ自宅へとぼとぼと帰る。 すると悪いことは重なるもので、待ち構えていた母親が鬼の首を取ったような顔で言い放った。 「ああ、そうだ。来週から家庭教師の先生が来るから、しばらくプール通いは控えなさいね」 「はあ? 何それ。聞いてないよ」 問答無用の宣言に驚き半分、ちょっと頭にきて声を荒げる。それではますます亜美との再会が難しくなるではないか。 「当たり前じゃない。今話したんだもの。あんた自分の立場わかってるの? 今頃のんきにプールで遊んでるなんて良い身分じゃない。水泳で推薦を取れなかったんだから、ちゃんと試験を通って入るしかないんだからね。うちにはあんたを浪人させる余裕なんて無いし、一流の大学に通ってる先生にちゃんと教えてもらって、何処でも良いから潜りこんじゃいなさい」 何と乱暴な物言いだ。実の息子の唯一の楽しみを奪ったうえ、監視役まで付けるというのに、わざわざ推薦を逃した事実を蒸し返し、あまつさえ何処でも良いからとはあんまりだ。抗議してやる! 「わ、わかったよ……潜りこむよぅ」 無理だった……。敗残の身にできるのは、とほほ、と心の中で呟いて自分の部屋に逃げ帰り、錆びたパイプベッドでふて寝するくらいだ。 祐一は恐らく母親好みな好青年であろう家庭教師の、ぶっ飛ばしたくなるような爽やかな笑顔を想像して、げんなりするばかりだった。 やがて一週間が過ぎた。今日は初めて家庭教師の来る日だ。憂鬱な気持ちで放課後の校舎を後にした祐一は、真っ直ぐ家に帰るのが嫌で、駅前のゲームセンターに寄り道した。 本当はプール代になるはずの小遣いを、新作格闘ゲームに投入して憂さ晴らしする。 と、その出来の良さについつい夢中になり、現実逃避も手伝って、予算オーバーも気にせず長々とプレイしてしまった。 途中から時間が気になってはいたのだが、今から行っても遅刻だし……などと、登校拒否する中学生のように、強引に自分を納得させてゲームを続けていた。 そうこうするうち、いつもならプールで泳いでいる時間がやってきた。 ポケットの硬貨も残り少ないし、何よりお腹が減った。ラスト一回と決めて、最後は得意のオリンピックゲームにコインを入れる。 種目はもちろん競泳を選択し、百メートル自由形で堂々の世界新記録をマークした。 (おっしゃ!) 飽きるほどやったゲームなのに、記録更新にはやはり興奮してしまう。 大抵はその後、所詮は絵空事、という虚しさに襲われるわけで、それは今日も例外ではなく、帰れば間違いなく待っている母親の説教を思うと気分はさらに重くなった。 「ゲームでは立派な記録が出るのね。本番では泳がせても貰えなかったくせに」 背後からの不敵な発言に驚き、立ちかけた席に尻を落として、首だけ振り返る。 「ど、どなた……ですか?」 腕組みして立っていたのは、からし色のスーツをばっちり着こなす若い女性だった。 ショートボブの髪はうなじの辺りが短く、前に向って垂れ下がるように斜めに切り揃えられている。極上のヘアピースと見紛うほど黒光りする髪に縁取られ、小さな卵形をした白い顔が、星の無い夜空に浮かぶ月みたいだ。 細い眉も長いまつげもすべて自前のようで、几帳面に紅の敷かれた真っ赤な唇に、祐一は息を呑んだまま返事を待つ。 「今日からきみの家庭教師。お母様はきっとここにいるっておっしゃっていたけれど、さすがね。自分の息子のこと、よくわかってるわ」 上から見下ろす怜悧な瞳に射すくめられて、祐一は母親に毒吐いた。 (女なら女って、先に言っとけよ……) しかし、決して恨み節ではない。むしろ嬉しい悲鳴に、困った末の照れ隠しだった。 「お母様が夕ご飯を作って待っているから、すぐに帰って食事を済ませて、それから授業にしましょう。今のきみを合格させるのは、この私にもちょっと骨が折れる仕事よ。無駄な時間を過ごしている余裕は無いわ」 言うだけ言って去っていく背中を、祐一は慌てて追いかける。 くびれた腰を小気味よく左右に振り、爪先を蹴って歩く後姿は、スーパーモデルのキャットウォークさながらに洗練されていた。 ただし、その身体つきにモデルたちのような痛々しいまでのスレンダーさは無い。 タイトスカートをぱんぱんに張ったヒップは大きく、ずっしりとした重量感に溢れている。むっちりとしたふとももは狭いスカートの裾に絞られ、腰から膝へと連なるたおやかなラインは、逆さにしたコーラの瓶を連想させた。 (すごいや。今日からあの身体を間近で見られるんだ。こりゃ勉強どころじゃないかもしれないな) つい先ほどまでの沈んだ気分は何処へやら、すっかり興奮して浮き足立ち、彼女のすぐ後ろを歩きながら、目は下半身に釘付けになった。 (も、もしかしてあれ、ガーターベルトだったりして……) ほとんど素足と変わらない、極薄の黒いストッキングを舐めるように眺めて、祐一は空想した。 ぷるんと震えるふとももの裏から、ぴんと張り詰めたアキレス腱まで、長い脚の表面を這うようにシームが伸びている。足首は恐いくらいに細く、今にも折れそうなヒールの踵を物ともせずに、颯爽と歩く姿は惚れ惚れするほど格好良い。 「あ、あの……」 自分から話しかけるなんて、いつもならできなかったろうに、思いがけない素敵な出会いに舞いあがり、祐一は勢いに任せて口を開いた。 「せ、先生は女子大生……なんですよね?」 二十歳そこそことは思えない色気に、つい訊いてしまった。 「そうよ。今は三年生で、年齢はきみより三つ上。こんなところでなんだけど、時間が勿体無いから自己紹介しておくわ」 そう言って彼女は脚を止め、おもむろに手を差し出してくる。 「澤村杏子よ。よろしくね、祐一くん」 握手を求められていると、ようやく気付いて慌しく反応する。 触れて良いやら悪いやら、ぎこちなく握り返した手は絹のようにすべすべで、暖かな掌と完璧に手入れされた紅い爪にどきどきした。 「よ、よろしくお願いします!!」 離すのが余りにもったいなくて、祐一はしっかりと手を握ったまま深々と腰を折る。 まるで女王の前に跪き、手の甲に接吻する騎士のような気分だった。 「ほんと、馬鹿な子ね。せっかく美人の先生を雇ってあげたのに、寄り道なんかして……」 部屋に杏子を待たせ、がつがつと大急ぎで食事する祐一を母親は呆れ顔で見つめる。 「何でそれを……先に言わないのさ! そしたらまっすぐ……戻ってきたのに!!」 口の中をもぐもぐさせながら、祐一は説得力の無い反論を試みる。 「あんたを驚かせようとしたの。どうせ男の先生を雇っても勉強なんかしないでしょう? あーあ、親心のわからない息子を持って、私はなんて不幸な母親なんだろう」 よよ、と泣き崩れる演技過剰な母親に、付き合っている暇など無かった。 最後の味噌汁を一息に飲み干すと、忙しなく席を立つ。 「ごちそうさま!」 「ちゃんと歯を磨いていきなさい。相手はレディなんだから」 「……」 「ねぇ?」 頬杖をついた母親はにこにこと微笑んでいる。祐一は返事もしないで洗面所に駆け込み、歯茎から血が出そうな勢いでブラッシングした。 足音を殺して二階に上がり、ドアの前に立って口臭を確かめる。自分の部屋へ入るのにノックするのもおかしな話だが、一人っ子の祐一にとって、母親以外の女性がいれば、それはすでに自分の部屋ではない。ガールフレンドの部屋に初めて入る時のように、高鳴る胸の鼓動を抑えて、そっとドアを叩いた。 「どうぞ」 すぐに戻ってきた落ちついた声に、息を止めてドアを開ける。 「失礼します」 「あら、ずいぶん早いのね。そんなに急がなくても良かったのに」 ブラウス姿で勉強机に向かい、杏子は何やら教材の準備をしていた。使い古した椅子の上で丸いお尻が扁平し、ストッキングの脚は軽く組まれて、ヒールを脱いだ艶かしい爪先が上機嫌に揺れていた。 「い、いえ。お待たせして済みませんでした」 美人を待たせて呑気に飯が食えるほど神経は太くないし、約束をすっぽかすつもりで遊んでいたのだから、急がないわけにはいかなかった。 「フフフッ、そんなに緊張しなくていいのよ。それじゃ始めましょう」 そう言って脚を崩すと、杏子はすぐ隣のパイプ椅子に移る。平静を装って座った自分の椅子はほんのり温かく、身体を揺らせば肩のぶつかる距離に、髪の毛から漂うリンスの匂いが鼻腔を優しくくすぐった。 「まず最初に、ちょっとしたテストをさせてもらうわ。今のきみの実力がどの程度か知りたいの。成績の話は聞いているから、大体はわかるけれど、一応ね」 一気にブルーな気分になった。母親が何を話したのか、おおよその見当はつく。 きっと、言わなくても良いことを色々と話したのだろう。しかもテストをされたら、それが紛れも無い事実とバレてしまう。 綺麗な女子大生に手取り足取り勉強を教えてもらえる、なんて安易に喜んでいたのも束の間、逆を言えば自分の駄目っぷりを披露しなければならないわけで、初っ端から恥をかくと思うと、今からでも授業をキャンセルしたくなった。 「今はあまり結果を気にしなくて良いわ。何を理解していて、何を理解できていないのか、それを把握するのが目的だから」 「は、はあ……」 動揺を敏感に察したらしく、すかさずフォローしてくれる。テストをする前から気を使われ、どうにも格好がつかない。 テストを終えた時、その結果を見て、杏子は呆れるのではないか? 極めて後ろ向きな思いに囚われながら、シャープペンシルを動かし始める。でも、ほとんど問題を解けないため、すぐに手は止まってしまった。 どう考えても、わからないものはわからない。ギブアップしてしまおうか、と思って杏子を見やり、祐一は考えを改める。 参考書を読み耽る杏子の胸元は、ブラウスのボタンが今にも弾けそうなくらい膨らんでおり、純白の生地を通してネイビーブルーのブラジャーが薄っすらと透けていた。 (うわぁ……杏子さん、胸おっきい……) プールで眺めた不二子のバストに、勝ると劣らない見事なおっぱいだった。 しかも幸運は続くもので、バストの圧迫に耐えかねたのか、先ほどまで閉じていた上から三つ目のボタンが音も無く外れた。参考書に夢中の杏子は気付いておらず、大きく開いた襟の隙間から、ブラジャーに包まれた深い胸の谷間が思い切り覗ける。 雪のように白い首筋と綺麗な翼型の鎖骨。柔らかそうな乳房とそれを覆うレース仕立ての大人っぽいブラジャー。これでもかという淫靡な光景に加え、解放された胸の谷間より立ち昇る、香水混じりの甘い体臭に刺激されて、祐一のペニスはズボンの中でむくむくと鎌首をもたげた。 (駄目だ! 駄目だ! 今日、会ったばかりで、しかもテスト中なのに、僕は何を考えてるんだ!?) ボタンのことを教える、とまではいかなくても、せめて見て見ぬ振りをするのが、紳士というもの。テストそっちのけで覗きに興じるなど言語道断、それは重々わかっていた。けれど、理性とは正反対に視線はゆっくりと杏子の下半身へ移動してしまう。 座っているせいでタイトスカートはずり上がり、ふとももが半分ほども露になっている。ストッキングは薄く伸びて透き通り、むちむちとしたふとももの触感まで伝わってきそうだ。しかも、その根元付近でストッキングは終りを告げ、タイトスカートとの合間から覗ける生足には、ネイビーブルーのストラップがぴったりと貼り付いていた。 (ああっ! や、やっぱりガーターストッキングだったんだ……) 心の中で祐一が驚喜した時、胸元に気付いた杏子は、何気ない仕種でボタンを留め直した。咄嗟に視線を答案用紙に戻したので、覗きはバレていない筈だった。でも、百パーセントと言い切る自信はなく、嫌われてしまったのではないか、という不安に駆られて、もはやテストどころではない。ほとんど手を動かさないまま、祐一は制限時間を迎えてしまった。 「だいたいは予想どうりね」 ろくでもない答案を見ても、杏子は顔色一つ変えなかった。いったいどんな予想をしていたのだろう。祐一は硬く膨らんだペニスを持て余し、もじもじしながら訊いてみた。 「あのう……母さんからどんな風に聞いてます? 僕のこと」 部隊の先頭を切って地雷原を歩く兵士の、一歩一歩足元を確かめて進むような口振りに、杏子はちらりと振った横目をゆっくり回して考える。 「そうねぇ……フフフッ。それなりに才能もあるし、かなりの努力家だけど、二つ以上のことを同時に出来ないくらい不器用で、いつもここぞって時に失敗するタイプ」 誉めているのか貶しているのか微妙な、けれども相応の評価だった。 「今日はきみがずいぶんと遅刻をしてくれたから、お母様といろいろお話しできたわ。事故の話も聞かせてもらった。残念だったわね、夏の大会」 「それは言わないで下さい……」 シリアスな雰囲気になるのを恐れて、祐一はくぅっ、と大げさに顔を背けて見せる。「交通事故のはずなのに……」 杏子は言葉を切って机に頬杖をつき、小鹿みたいな目を綻ばせながら先を続けた。 「顔をあざだらけにして帰ってきたらしいじゃない?」 生まれて初めて人を殴った時の、吐き気を催すような拳の感触が思い出される。 「けっきょく、その怪我が理由で、大会に出してもらえなかったんでしょう? 高校野球とかでよく聞くものね。大会前の不祥事でチームごと出場停止処分とか」 それを避けるために祐一個人が責任を取ったのだ。自分の為に、他の部員まで巻き添えにはできなかった。 「いったい、何があったのかしら?」 間近でまっすぐ見つめられ、その吸い込まれそうな黒い瞳に、うっかり口を滑らせそうになる。 あれは大会を一週間後に控えた、ある日の出来事だった。 学校帰りの満員電車の中で、中学生らしき女の子が痴漢に遭っているのを見つけた。 相手は大学生と思しき三人の男で、それぞれ他人を装って二人が壁役になり、残る一人が背後から痴漢をしていた。壁際に囲い込まれた女の子は、すぐ傍の二人に目で助けを求めるものの、とうぜん見て見ぬ振り。祐一の目の前で男は堂々とスカートの中に手を差し込んでいた。 始めは驚き、続いて犯罪行為をライブで見る興奮と、得体の知れない恐怖に冷や汗をかいた。 (どうする!? どうするっ!?) 普段は心の奥底で眠っている正義感が中途半端に頭をもたげ、荒事を恐れるヤワな気持ちと決闘を始めた。 他の乗客が気付いてくれるのを切に祈ったが、誰一人として気付きはしない。 女の子を助けられるのは自分一人、という重圧に晒され、祐一は迷った。 と、その時、ガラス越しに女の子と目が合ってしまった。 (どうして、助けてくれないの!?) 不実を非難されているような気分になり、焦った祐一は彼女と男の間に咄嗟に身体を滑り込ませていた。 満員の車内は狭く、その中を強引に移動した祐一に、そして男達に周囲の視線が集まった。首の後ろが緊張でかーっと熱くなる。義を見てせざるは勇無きなり、などと倫理の教師のごとく自分に言い聞かせて状況に耐えた。 幸いそれ以上の騒ぎにはならず、動揺した男たちはあっさり手を引いた。数駅あとで女の子は電車を降り、閉じたドアの向うから深くお辞儀をして帰っていった。 ああ、本当に良かった。これにて一件落着……と思いきや、そうは問屋が卸さない。 逆恨みした三人に後をつけられ、近所の河川敷で大立ち回りを演じてしまう。 三対一の不利ではあったが、普段の鍛えかたが物を言い、不慣れな喧嘩で顔に大あざを作りながらも、どうにか撃退に成功したのだった。 「別に……なにもないですよ。土手の上でサイクリングしてた自転車と、ぶつかっただけです」 思い切り目を逸らして祐一は答えた。絵に描いたような武勇伝など、恥かしくて聞かせられやしない。 「ふーん、そう。でも、ちょっと格好いいじゃない? 誰の為に闘ったのかは知らないけれど、私、そういう男の子、けっこう好きよ」 さらりと言う杏子に我が耳を疑った。社交辞令とわかっていても、年上の綺麗なお姉さんに、好きなんて言われたら、平気ではいられない。 赤面していないか心配しつつ、ゆっくり向き直って真意を確かめようとしたところ、分かっているのよ、とでも言いたげに杏子は悪戯な笑みを浮かべ、祐一の視線を十分に意識した仕種で脚を組み直した。 「それはそうと、勉強の方はいまいち乗り気じゃないみたいね。水泳にはまだまだ未練がありそうだけど……」 重ねた答案をひらひらとかざす姿に、顔と脚とどちらに視点を定めて良いか迷ってしまう。 「そ、そんなこと……ありません」 「お母様が冗談で言っていたように、本当に何処でも良いのなら、どうにでもなるわ。大学と言ったって、私立の場合はある意味商売だし、生徒は大切なお客だから、答案に名前さえ書けば、入れてくれるところなんていくらでもある。けれど……」 と、杏子は小首をかしげて念を押す。 「きみは本当にそれでいいの?」 扇みたいに広がった髪が頬にかかり、隙間から覗けた紅い唇は、祐一の本心を試すように笑っていた。 (よくはない。よくはないけど……でも、今からじゃもう……) 言い訳じみた諦めが胸に渦巻く。受験までの残り半年たらずで、それなりに納得のいく大学に入るなど、とても不可能に思われた。 それでも面と向って、良いのか、と訊かれ、ええ構いません、と答えられるほど、大物ではない。 良いとも悪いとも口に出せず、ただ首を横に振るのが精一杯だった。 「フフフッ、よろしい。まだ完全には諦めていないわけね。それなら私も手を貸してあげられる」 どうやら返事は正解だったらしく、杏子は何度も頷きながら、答案用紙の裏にボールペンを走らせた。 「まずは志望校を三つに絞りましょう。それぞれA、B、Cランク」 そう言って丸で囲まれたアルファベットの横には、続けて達筆な日本語が書き込まれる。 「Aランクはまず無理。でも、一パーセントの可能性も無いわけじゃない。Bが本命で、頑張ればギリギリどうにかなるレベル。そして最後のCは安全確実の滑り止め」 極めて分かりやすい説明の後、ボールペンのキャップをぱちりと戻して締め括った。「自分で言うのもなんだけど、私はかなり優秀な家庭教師よ。今まで何人も第一志望に合格させているの。だからきみも私を信じて、Aクラスを目標に頑張って」 俺を信じろ、なんて野郎に言われていたら、それこそやる気がゼロになっていただろう。でも相手が杏子なら、例え行き先が何処であれ、目を瞑ってでもついて行ける気がした。 大学への憧れなんてまったく無いけれど、杏子に誉めてもらう為に、ここはひとつ頑張ってみよう。 動機は至って不純だが、ともあれ気まぐれな士気はがぜん高まっていった。 翌週から特訓が始まった。土日を除いて毎日やってくる杏子は、学校から帰るとすでに待ち構えており、家でいっしょに夕食を取っては、帰宅した父親と入れ替わりに帰っていく。 無駄な遠慮のない性格ですっかり家族に溶け込み、祐一を合格させるために時間の許す限り面倒を見てくれた。 母親には控えろと言われたものの、なんだかんだで週末だけはプールにも通い続けた。しかし、タイミングが悪いのか、それとも本当に来るのを止めてしまったのか、相変わらず亜美には会えなかった。 やがて残暑の名残も消え、秋風が吹き始める頃、杏子の教えと猛勉強が効果を見せ始め、祐一は連日行われるテストで、ようやく受験生らしい点数を取るようになった。 「ふむ。まだまだ合格ラインにはほど遠いけれど、少しずつ確実に良くなっているわ。元が体育会系だけあって、言ったことは必ずやってくれるから、こっちも教えてて、張り合いがあるわね」 その日、返されたばかりの答案を見ながら、杏子は満足げに微笑んだ。 祐一にとって彼女の笑顔は何よりの励みであり、美しい調教師から芸を仕込まれるイルカみたいに、次はより高くジャンプして、もっともっと誉めてもらおうと尾びれを元気に振って見せる。 「ぜんぶ先生のおかげです。急に成績が上がり始めたんで担任も驚いてました。よほど良い家庭教師を雇ったんだろうって」 「あらあら、ずいぶんと誉められちゃったわね。でも、祐くんの頑張りもかなりのものよ。毎日大変でしょうけど、この調子を受験まで維持できたら、第一志望も夢じゃないと思うわ」 まったく隙の無いシャープな外観も、話せば気の良いお姉さんで、親しみやすいキャラクターに杏子をより身近に感じて、祐一は嬉しかった。 ただ同時に、どうしてこんなに一生懸命になってくれるのだろう、と疑問に思ったりもする。母親がいくらバイト代を払っているのか知らないけれど、楽しい大学生活の最中なのに、自分みたいな受験生に延々と付き合ってくれるなんて、どうにも理解できなかった。 「あの……先生はどうしてこんなに良くしてくれるんですか? 勉強だって忙しいでしょうし、せっかくのキャンパスライフなのに……」 祐一の言葉に、一瞬きょとんとした杏子は、掌を口にあててクスクス笑い出した。 「祐くんは本当に良い子ね。毎日、毎日、これでもかっていうくらい勉強させられてウンザリでしょうに、私の心配までしてくれるんだから」 「ぼ、僕……ウンザリなんてしてません。前と違って、今はいやいや勉強してるわけでもないし」 「だったら、どうして頑張るの? 正直に言うと大学には興味無いんでしょう? 四年間遊んで暮らしたい、なんて思ってるわけでもなさそうだし」 「そ、それは……」 もちろん杏子に誉めてもらいたいのが主な理由だったが、それだけでは無い。 夏の大会からこっち、まるで空気の抜けた風船みたいになっていたのに、今では日々が充実している。いったいどうしてなのだろう? 「人間にはね。確実に前へ進んでいる感覚がきっと必要なのよ。もちろん明確な目標はあった方が良いけれど、もしそうでなかったとしても、昨日と今日で、同じ場所に立ち止まっているわけじゃない、せめてそう思えれば、少しは安心できるでしょう」 同意を促すように小首を傾げた杏子は、すべてを知り尽くした大人のようにも、無邪気な少女のようにも見えた。 「なるほど……なんとなく分かる気がします。でも受験生の僕はともかく、先生も何か不安なんですか?」 「私の場合は……そうね。自分にとって一番大切な人から必要とされない不安。それを別の誰かで紛らわせようとしているのかもしれないわね」 女性としてほぼ完璧な杏子の見せた、およそ彼女らしからぬ自嘲的な笑顔に動揺して、祐一はつい口を滑らせてしまう。 「つまり……僕はその大切な人の身代わり?」 杏子の顔が一瞬、能面のように固まった。言った祐一もしまったと思った。 互いに犯した失言の代償は、その後の長い沈黙であがなわれた。 (先生の一番大切な人って、誰なんですか?) 本当に訊きたかった質問を喉の奥に飲み込みながら、祐一は無神経な自分の頭を、壁に叩きつけてやりたかった。 「わざわざ送ってくれなくてもいいのよ。勉強で疲れてるでしょうに」 街燈の少ない夜道を二人並んで歩きながら、杏子はぽつりと呟いた。 「いえ、もう時間が時間ですし、最近は嫌な事件も多いですから」 夜九時までの授業を終え、帰って行く杏子を駅まで送るのは、祐一の大事な日課になっていた。時間にして約十分。二人きりで歩く時間はとても貴重だ。 「今日はごめんなさいね」 「えっ!?」 「偉そうにお説教したくせに、途中から自分の話になってしまって。そのせいで余り授業が進まなかったわね」 反射的にぎくりとしたものの、明るく話す様子はいつもの快活な杏子で、ほっと胸を撫で下ろす。 「い、いえ、いいんです。たまにはこんな日があっても悪くないと思います。それに、今日はいろいろとお話ができて、少しだけ先生に近づけたような、そんな気がして嬉しかったし」 恥かしいので真っ直ぐ前を向いたまま、なるべく歩き方が不自然にならないように言った。 「今までは、私ばかりが一方的に祐くんのことを知っていて、ずいぶんとアンフェアだったものね」 「別にそういう意味じゃ……」 「うん……分かってる」 祐一の言葉を遮って、杏子は静かに頷いた。 やがて人気の無い路地を抜けて、二人は駅のターミナルに出る。足早に家路を急ぐほど寒くはなく、時間もまだ宵の口なので、駅前には沢山の人が行き交っていた。 人々の喧騒に巻きこまれる前に、杏子は立ち止まってこちらを振り向く。 「ここでもう充分。送ってくれて、どうもありがとう」 「どういたしまして。じゃあ……また明日」 「ええ、また明日からビシビシしごいてあげるわ。覚悟しておいてね」 切れ長の瞳で軽くウィンクすると、ヒールの足を踏み出そうとしてふと考え、思い出したように言葉を続ける。 「そうだった。今日はご褒美を持ってきてるんだったわ」 「はい?」 「ちゃんと結果を出したら、渡そうと思っていたの。たいしたものじゃないけれど、受けとってくれる?」 「も、もちろんです。先生から貰えるなら、どんなものでも!」 「そんなに期待されると困るわ。本当にちょっとしたものだから。それじゃ、後ろを向いて目を瞑って」 「は、はいっ!」 言われるままに後ろを向き、祐一はきつく目を閉じた。手渡しされると思って後手に掌を広げていたが、いつまで待っても何も起きない。 (あれ!?) 不安になって恐る恐る薄目を開けようとしたところ、とつぜん両肩に手がかかり、鼻先に暖かい吐息を感じて身を硬くする。 「んんっ!」 不意に柔らかな感触が唇を包んだ。驚いて目を見開くと、背後にいたはずの杏子が目の前にいた。軽い爪先立ちで唇を押し当てる彼女は、静かに瞼を閉じ、眠っているように穏やかな表情をしている。 慌てて祐一は目を閉じた。真っ暗な闇の中で、体温だけが唇越しに伝わってくる。 夜風に乱れた髪が頬をくすぐり、緊張に唇を結んだまま深呼吸すると、杏子の身体から立ち上る仄かな薔薇の匂いに脳髄は痺れ、思わずそのまま抱き締めてしまう。 「あっ!」 小さく声を挙げて杏子は唇を離すが、祐一は構わず抱きすくめる。 今度は身体全体で体温を感じられた。両腕に伝わるふわふわした感触と、胸に密着する乳房のボリュームに、心臓がばくばく音を発てている。 「安上がりでごめんなさいね。次の模試で成績が上がったら、もっとすごいことしてあげる。だから、今日はこれで許して」 耳元で杏子が囁いた。 「もっと……すごいこと?」 「そうよ。祐くんの知らない大人の遊び、たくさん教えてあげるわ。だから……」 やんわり身体を離すと掌で祐一の頬をそっと撫で、そのまま人差し指で唇に触れた。 「私が言ったひどいことはぜんぶ忘れてちょうだい。きみは誰の身代わりでもない。私の大切な教え子よ。信じて欲しい」 笑顔と裏腹の真剣な眼差しに、祐一は黙って頷く。やはり、まだ気にしていたのだ。 「ありがとう。気をつけて帰ってね。おやすみなさい」 ショルダーバッグを担ぎ直し、杏子は何事もなかったように去っていった。 唇の触れた部分が焼け爛れたみたいに熱を持ち、頭の芯をすっぽりと抜き取られて何も考えられない。 からし色のよく目立つ背中が人波の向うに消えてしまっても、祐一はしばらくその場に立ち尽くしていた。 (昨日、ひさしぶりにあの子と電話で話したけれど、前と何も変わっていなかった。表面では慕ってくれているのに、心の底では傷つけられるのを恐れている。あの子はまだ、私を受け入れてくれてはいない) 大学図書館で過去問を調べながら、杏子はまったく別のことを考えていた。 入学と同時に家を出た杏子だったが、実家はさほど遠くはない。一人暮しを満喫したかったわけでもないし、両親と折り合いが悪かったわけでもない。 理由はただ一つ。自分が家にいると、たった一人の妹が辛い思いをするからだ。 無邪気に慕ってくれていた彼女の視線に、畏敬や遠慮が混じり始めたのは中学生の時だった。 小さい頃から優等生だった杏子は、当時の受験ブームにほだされた両親に薦められ、難関と言われる私立の中学を受験し、そして合格した。 両親や担任教師には誉められ、クラスの友達には羨ましがられた。もちろん、妹も喜んでくれた。 けれど、二人を常に比較したがる周囲の目は、彼女を少しずつ追い詰めていった。 やがて決定的なわかれ道がやってくる。杏子の合格に気を良くした両親が、半ば強制的に同じ中学を受験させたのだ。 およそ競争には不向きな性格の妹は、すべり止めを含めたすべての受験に失敗し、優等生の姉と駄目な妹、というレッテルを貼られてしまった。 姉として当然と思い、慰めの言葉をかけた杏子に、妹がした初めての反抗。 (私……お姉ちゃんみたいにはなれないよ) その日以来、彼女は心を開かなくなった。 「いけない。もうこんな時間だわ。祐くんの家に向わなきゃ」 問題集を書架に戻すと、気を取り直して図書館を後にする。大学から祐一の家までは一時間余りで、彼が帰宅するまでには着いている約束だった。 杏子の母親ほど偏執的ではないにせよ、祐一の母親もまた、合否が気になって仕方がないらしい。たかが一年浪人したくらいで、何が変わるとも思えないが、人の親になると、そう呑気な話もしていられなくなるのかもしれない。 閉まりかけたドアに滑り込んだ杏子は、流れる景色を眺めながら、祐一のことを考える。 (今日は模試の答案が戻ってくる日のはず。前回、苦し紛れにあんな約束をしてしまったけれど、彼は覚えているかしら?) 忘れる筈はないと思った。動揺からいらぬ負い目を作ってしまい、勢いでキスまでしてしまったのだから。 (あの子と同じ学校に通っているから、変に意識しているのかもしれないわね。学年が違うし、あの子は部活にも入っていないから、知り合う機会なんてないでしょうに……) 大学の掲示板に張られた家庭教師の募集覧から、祐一を選んだのもそれが理由だった。 今思うと迂闊だったのかもしれない。可能性が少ないとはいえ、妹との接点は皆無ではないのだから。 (きっと私は、あの子に教えてあげたかった色々なことを生徒たちに教えてきたのね。でも、今度は初めての男の子だから、少し勝手が違うわ。祐くんたら、初日から私の胸や脚ばかり見ていたもの) 杏子はこれまで、女子にしか教えた経験が無かった。でも、初めて受け持つ男子が祐一だったのは、不幸中の幸いかもしれない。 同じ大学に通う家庭教師仲間の話では、しょっちゅうプライベートな質問をされたり、それとなく身体に触られたりする場合もあるらしい。 女性に対する興味が最も盛んな頃だから、ある意味しかたないとも言えるけれど、やはりそれはそれ。大学での交際経験から寒い現実を知ったが故に、せめて高校生の間だけでも、純情な少年でいてもらいたいと思った。 そこへいくと祐一など可愛いものだ。ちょっと肩が触れただけで、今にも飛びあがりそうなくらい緊張し、ふとももが擦れでもしたら、恥かしくて自分から離してしまう。 もし男が狼と言うのなら、さしずめ祐一はちょっとエッチな羊というところだろう。 だからこそつい心を許して、率直な質問に本音を漏らしてしまったのかもしれない。 (祐くんの成績、どれくらい上がったかしら? 彼には悪いけれど、できたら少しずつ上がって欲しいわね。いきなりジャンプアップされたら、ちょっと困ってしまう。やっぱり大人の階段は、一段、一段、ゆっくりと上っていくものだもの) 気がつくと頬が緩んでいた。乗り換えの為に列車を降りた杏子は、向い側のホームで快速電車を待ちながら思う。 どうやら自分は年下が好みらしい。それも見知らぬ女の子の為に、大事な大会を棒に振ってしまうような、可愛い年下の男の子が。 (あいつは、あいつは、可愛い〜♪) 今どき誰も歌わないような古い曲が頭の中に思い浮かび、柄にも無く浮かれている自分に杏子は苦笑した。 駅の改札を出ると、大学にいたときには青かった空が重苦しい鉛色に変わっていた。(参ったわ。天気予報は晴れって言ってたから、今日は傘を持ってきてないのよね) 暗転した気分を余所に、雲の上で雷が鳴り始める。早くしないと一雨きそうだ。 (今月はちょっと苦しいから……) 売店で売っている傘を横目で流し、杏子は早足で歩き始めた。 過保護な両親のありがたい申し出を断り、学費以外の生活費を自分で稼いでいるせいで、月末の懐はかなり寂しいのが常だった。 契約を大幅に上回る勤務時間も、悲しいかな最初のうちは祐一の母親に提示された割増料金によるところが大きい。 (こんな貧相な家庭教師と知ったら、きっと祐くんも幻滅するわね) 軽い溜息を吐いた途端、鼻の頭に冷たい雫が落ちてきた。予想通りの雨に、やっぱり降り出したか、なんてしたり顔で思っていたら、いきなり雨脚が強まり、数歩あるく間も無く、空からの集中砲火に躍らされる羽目になった。 さすがにまずいと思い、素早く辺りを見まわした杏子は、シャッターの下りた煙草屋の軒先に慌てて駆け込む。このまま祐一の家まで走ったら、きっと下着までびしょ濡れになるだろう。そうなれば、もう授業やお祝いどころではなくなってしまう。 「さて……どうしようかな? 止んで欲しいとまでは言わないから、もう少しだけ、手加減をしてもらえると、ありがたいのだけれど……」 濡れた額をハンカチで拭いながら、曇天の空に譲歩を促してみるものの、無粋な稲光の返答に敢え無く交渉は決裂し、杏子はすっかり人通りの無くなった小路で立ち往生してしまった。 「このままじゃ完全に遅刻ね。誰か傘を持って通らないかしら? そして、祐くんの家まで入れていってくれないかしら?」 何とも都合の良い言いぐさだったが、取り合えず口にはしてみるもので、飛沫に霞んだアスファルトの向うから、こうもり傘が歩いてくる。 「あのっ、済みませ……!」 騒々しい雨音に抗い、少し大きめの声を出しかけて、口を噤んだ。 「先生、こんな所でなにしてるんですか?」 いつものように野暮ったい私服を着た祐一が、不思議そうな顔で立っている。 まさか傘を買うお金が惜しかった、なんて言えるわけがない。 「祐くんを待っていたの」 自分を誉めたい会心の受け答えに、祐一の頬が紅くなるのを見て、心の中で小さくガッツポーズを決めた。 「もしよかったら、家まで入れていってもらえない?」 「あっ! 気がつかなくて済みません。どうぞ入ってください」 傘を差し出して迎えてくれる祐一に、ごめんねと謝って肩を寄せる。 彼の手は相合傘の緊張で震え、何があっても先生だけは濡らすまい、と自分の身体を半分ほど傘の外に出す勢いだった。 「それじゃ祐くんの肩が濡れてしまうわ。もっとくっついて」 「いえ、僕は平気ですから。先生はスーツを濡らさないようにしてください」 気遣いはとてもありがたい。仕事着であり、家庭教師としての印象をつかさどるスーツやブラウスには、かなり値の張る代物を選んでいた。 けれど、自分の不始末をすべて教え子に押し付けるのはあまりに心苦しい。 「そうだ。腕を組んで歩きましょう。そうすればどちらも濡れずに済むわ。祐くんも服を洗ってくれるお母様のこと、忘れてはだめよ」 それらしいフォローをしつつ、半ば硬直した祐一の腕を手繰り寄せた。 「せ、先生っ、まずいですって! 人に見られたら……」 「この雨で誰も歩いてないじゃない。それにもし見られたとして、何がまずいの?」 「そ、それは……」 おたつく様子が嬉しくて、出血大サービスとばかりに少しだけ胸を押しつけてみる。 「あっ……」 祐一はもう何も言わなかった。やや顔を背けて黙々と歩く、頭半分背の高い少年を見上げて、杏子は鼻高々だ。 (他人が見たら、どう思うかしら? 姉弟? それとも恋人? 家庭教師と教え子なんて、ひと目ではわからないわよね) そのいずれであっても、決して悪い気はしない。年齢にして三つしか違わないのに、現役の高校生と歩くのはなかなかスリリングで、雨のためにギャラリーのいないのが、少し寂しいくらいだった。 バージンロードを歩くときのように、互いの歩調をしっかり合わせながら、二人はゆっくりと家まで歩いた。 「あら大変。先生ったらこんなにお濡れになって。突然の雨でしたものね。この子はちゃんとエスコートしてくれました?」 タオルを片手に母親が訊いた。いつも通り、到着を待っていてくれたらしく、居間のテーブルにはお茶の準備がされていた。 「ええ。途中で偶然会いまして、傘に入れてもらいました。私より濡れていますから、拭いてあげてください」 「いいんですよ、この子は。他にも沢山あるのに、いつも同じ服ばかり着ているんだから。たまには雨にでも降られて、洗濯に出してくれた方が良いんです」 そう言って溜息を吐く母親にスーツを脱がされると、胸元がひんやりした。 どうやら最初のひと降りで、かなりブラウスが濡れていたらしい。顎を引いて見れば、ちょうどスーツの襟に沿って、しっとりと湿っている。 もともと薄いシルク生地は濡れてさらに透き通り、キャミソールの胸に刺繍されたレースが黒いリボンの下からうっすらと覗けていた。 恥かしいと思うより先に、祐一の視線が気になった。ハンカチで拭きながら、それと気付かせないように様子を伺う。 (フフフッ、やっぱり見てるわ。気になるわよね。さっきまで腕にあたっていたんですものね) 母親譲りの豊かなバストは杏子の自慢でもある。いやらしい中年親父に見られるのは我慢できないが、祐一になら少しくらい見せてあげても良いと思った。 熱心にこちらを見つめている、まるで走り去るスーパーカーを追うような少年の目つきに、胸の奥が、そしてふとももの付け根がじゅんと熱くなっていく。 (今はまだ駄目よ。ちゃんと成績が上がっていたら、きみの部屋でご褒美をあげる) ほんのひととき、リビングは時間が止まったように静まり返り、杏子と杏子を見つめる祐一の間にだけ濃密な時が流れる。 そんな静寂を打ち破ったのは、ハンガーにスーツをかけ終えた母親の気遣いだった。 「まあ、ブラウスまで濡れてしまって。祐一、あんたは先に部屋で待ってなさい」 弾かれたように目を逸らし、リビングを飛び出した祐一は階段を駆け上がっていく。 「さあ、風邪をひきますから脱いでくださいな。私のじゃ胸がきついでしょうけど、先生のブラウスは授業が終わるまでに乾かしておきますから」 てきぱきと着替えを用意する母親に、お礼を言いながら杏子は考える。 ブラウスの乾いた頃、自分と祐一の関係はいったいどう変化しているだろうか、と。 言われた通り、胸はかなり窮屈だった。強引に引き寄せた左右の襟を、無理やりボタンで留めて、どうにか体裁を保っている感じだ。 母親の手前、すべて留めていたボタンも、実は喉元の三つを開けておかなければ苦しくて息ができず、身体を動かすたびに、鎖骨から胸の谷間までが思い切り見え隠れする始末だった。 もう濡れてはいないので、それほど透けないはずなのに、肌との密着度が高まり、キャミソールを脱いだ分だけ、黒いブラジャーがブラウスの白を打ち負かして、くっきりと下着のラインを浮き上がらせている。 階段をゆっくり上りながら身なりをチェックするものの、どこをどうやっても過剰な露出を抑えるのは不可能で、諦めるほかなかった。 「入ってもいい?」 ノックの後で声をかけると、やや震えた声でどうぞ、と返ってきた。 「待たせてごめんなさいね。着替えにちょっと手間取って」 机に向って待っていた祐一は、部活で使っていたと思われるネーム入りのジャージに着替えていた。杏子の姿を見るなり目を大きく見開き、何か言おうとしているようだったが、半分ひらいた口は声を発することなく、そのまま閉じてしまった。 「なあに? 私の格好、どこか可笑しいかしら?」 わざとらしく訊いてみた。もちろん可笑しいに決まっている。鏡を見たら自分でも目を丸くしただろう。これが家庭教師の格好か、と。 「い、いえ! ぜんぜんおかしくなんてないです!!」 激しく首を振り、祐一は全力で嘘を吐いた。その仕種だけで杏子は笑い出しそうになる。 「そう。なら授業を始めましょう。今日は確か、模試の答案が戻ってくる日だったと思うけれど……」 すぐ横に腰掛けて、思わせぶりに脚を組む。祐一の喉がごくりと鳴って、でもリビングにいた時のように、露骨に眺めるわけにもいかず、困った様子だ。 「どう? 成績は上がった?」 「は、はいっ! 上がりました! 見てください!!」 急に目を輝かせて差し出してきた成績表では、学年順位が全体の半分近くまで上がっていた。当然この程度ではまだ話にならないが、ごく短期間での向上には見るべきものがあった。 「うん、うん。また確実に良くなったわね。ずっと頑張っていたものね」 重要なのは着実な進歩だ。それさえあれば、時間はかかってもいつかは目標に到達できる。杏子はさらなる進歩を促す為に、かねてから交わしていた約束を履行しようと決めた。 「さて、お待ちかね。一生懸命努力して、ちゃんと結果を出した祐くんに、ご褒美の時間です」 見世物小屋の口上を真似、少しおどけて言ってみる。今どきの女子大生とは言え、誰もが連日連夜の合コンに精を出し、好みの男を手に入れる為なら、平気で服を脱ぐわけではない。容姿のお陰で言い寄る男は多くても、身持ちは堅い方だった。 「祐くんは私に、いったい何を望むのかしら?」 性格的に度を越した高望みはしない筈なので、本人の好きにさせてみようと思った。 「そ、それは……」 案の定、祐一はすっかり困ってしまう。優しい人間であればあるほど、自分の欲望をはっきりと口にするのは難しい。 「求めよ、さらば与えられん。もし欲しいものがあるのなら、ちゃんと自分から求めるのが礼儀ってものよ」 杏子にも女としてのプライドがある。いくら約束したご褒美であっても、相手の求め無しに振る舞えはしなかった。 「先生の……先生の身体に触りたいんです……」 真っ赤な顔を俯かせ、上目遣いでこちらの様子を伺いながら、祐一は言う。 その様子が余りに可愛かったので、少し苛めてみたくなった。 「身体の何処を触りたいの?」 「えっ、そ、その……胸……とか」 「胸だけで良いの?」 「お、お尻とかも……できたら」 「他には?」 「ほ、他って……」 「ふとももは良いのかしら?」 調子に乗った杏子は、タイトスカートを少しめくって見せる。蒸れるのを嫌ってパンティーストッキングは穿かないので、今日もガーターベルトで吊っていた。 「最初の授業の時、テストを放り出して、私のふとももを見てたでしょう?」 「ええっ!? バレてたんですか?」 「もちろん。でも、まあ、それくらいでやる気を出してくれるなら、お安いものと思って黙っていたけどね」 「そ、そうだったんですか……その……ごめんなさい」 ちょっと苛めすぎたかもしれない。せっかくご褒美を楽しみにしていたのに、すっかり水を差してしまった。 肩をすぼめてしょんぼりする姿は、まるで母親に叱られた子供のように見え、母性本能を刺激されて、子宮のあたりがきゅんと疼く。 「謝らないで。別に怒っているわけじゃないの。もし嫌だったら、その時に怒っているし」 「先生……」 「私ね。ゲームセンターで祐くんに会った時、ラッキーって思ったの。初めて受け持つ男の子が可愛い子で良かった、てね」 「男は僕が初めてなんですか?」 「ええ。だから最初は上手く教えられるか、心配だったわ。エッチな質問をされたり、酷いと身体を触られたりするって、知り合いから聞いていたから」 「そんなこと……しません」 「そうね。紳士だものね、祐くんは。それに優しくて……ちょっと駄目な弟ができた気分」 「だ、駄目な弟……駄目な……はぁ……」 祐一はぼそぼそと繰り返しながら徐々に傾いていく。杏子はしまったと思った。 「ほら、落ち込まない! 言葉の裏を深読みして、勝手に落ち込むのは悪い癖よ」 肩を掴んで元の角度に戻す。年頃の男の子はデリケートで困る。 それでもまだ、微妙に傾いている祐一を見て、杏子はキレた。 「ああ、もうっ! じれったい! 立ちなさいっ!!」 急に怒り出した杏子に驚いて、祐一は条件反射で立ちあがる。その腰に手をかけ、杏子はジャージのズボンをトランクスもろとも、一気に足首まで引きおろした。 目の前に、しぼんだ状態のペニスがぶらんと垂れ下がる。 「せ、先生っ!? いったい、なにを……」 羞恥に頬を染め、祐一は怯えた目で慌てて股間を隠した。その姿はまるで、信頼していた男性教師にとつぜん襲いかかられた女子高生のようだ。 途端に杏子の中でギアが一段シフトアップした。 「黙りなさい。祐くんが悪いんですからね。据え膳食わぬは男の恥って諺を、あとで調べておくように!」 言い終えるや否や、祐一の手を払い除けて、ぶら下がっているペニスにやおら被りついた。 「あうっ!!」 上の方から女の子みたいな悲鳴が聞こえたけれど無視! この部屋に女は自分しかいない。 半分ほど被っていた包皮を指で剥き下ろし、問答無用で生暖かいペニスを舐る。 李みたいに膨らんだ亀頭は、割れ目からだらだら垂れ流しになっているカウパーでほどよいしょっぱさ。久方ぶりの味覚に杏子の欲情は、もうどうにも止まらない。 尿道口に舌先をねじ込んで、亀頭を半分に割ってやる。尿道の内側はつるりとしていて舌に心地良い。また、粘膜である為、とても敏感らしく、祐一の腰はびくんびくんと跳ねまくる。 「ひっ、ひいぃっ! よ、よして先生!! さ、裂けちゃう! おちんちん裂けちゃうよ!!」 (な、わけないでしょうが! それに何が、よ、よして、よ! しっかり、勃起してるじゃない!!) シリコンの塊みたいな肉棒は口内でにょきにょきと伸び、どくんどくん脈打ちながら、生意気にも大きく反り返っている。亀頭の傘は目いっぱい開いて、唇の裏に引っ掛かるほどだ。 (ああっ……これ、すごく気持ちよさそう。長さも太さも、先っぽの形も申し分ない。これで子宮を突かれたら、腰抜けるかも……) ずるりと口腔より吐き出したペニスを、杏子はしげしげと眺める。 唾液に濡れ光る肉茎の根元は太く、掴んだ指がとても回りきらない。日本刀のように反りかえった赤黒い肉茎は二十センチ近くもあり、水泳で鍛え上げられ、見事に割れた腹筋にその切先をぴったりと押しつけている。童顔に似合わず、目一杯かさを広げた巨大な茸は、包丁を入れたように裂けた頭の亀裂から、異臭撒き散らす毒液を、今にも噴き上げんばかりに膨張していた。 予想を遥かに上回る祐一のシンボルに度胆を抜かれ、成績の上がったご褒美なんて理屈はとっくに吹き飛んで、杏子は完全に楽しんでいた。 顔は可愛く、身体は逆三角形、でもって性格はMっ気あり、しかも教え子。 祐一はこれ以上ないほど、苛め甲斐のあるペットだった。 「どうせ、いつもオナニーしてたんでしょう? 授業が終わって、私が帰った後に。どうなの?」 祐一の吐き出した先走りの汁と、自らの唾液に顎を濡らして、杏子は訊いた。 「えっ……そ、それは……」 あからさまに目を逸らしている。間違いなくしていた顔だ。まあ、高校生のオナペットになるのもそう悪い気分ではない。でも、そんなことはおくびにも出さず、軽蔑口調で言ってみた。 「何を恥かしがっているの。これは授業の一環でもあるんですからね。ちゃんとこっちを見て答えなさい。それになに? まだ子供のくせに、ここだけはこんなに大きくなって。もしかしてオナニーばっかりしていたから、今まで成績が上がらなかったんじゃないの?」 「そ、そんなに……してません」 「そんなに何をしていないの? 物事ははっきり言いなさい」 掴んだ根元をきつく握り締めて、言い直させる。 「痛っ! ああっ! お、オナニーですっ。そんなにオナニーしてません!!」 顔を真っ赤に染めた祐一は、怯えた目でこちらを見つめて、はっきりと言った。 教え子の口から聞く、猥褻な言葉のなんと耳に心地良い事か。 「でも、少しはしていたってことよね。嫌らしい子」 「そ、そんなぁ……」 祐一は今にも泣きそうな顔をする。その切なげな表情に杏子は濡れた。 「私の胸やふとももを思い出しながら、一人でオナニーしていたのね。この硬いオチンチンをこうやってしごいて、いやらしいおしっこ、いっぱい出していたのね」 根元から先端までを両手で被い、指の腹で尿道を圧迫しつつリズミカルに搾り上げる。止めど無く溢れる透明な樹液が指を濡らし、ペニス全体に塗りたくられて、にちゃにちゃと卑猥な潤滑音を発て始めた。 「ああっ! せ、先生っ、ダメっ! そんなに強くしないで!!」 快感に背中を丸め、涙目で哀願する姿は、男とは思えないくらい艶やかだった。 「あらあら、女の子みたいな声を出して可愛いわね。そう、祐くんはこういうの嫌いなの。なら止めるわ」 言うなりぴたりと手を止める。自分でも酷いと感じているのに、でもここまできたら、何としても祐一に欲望を吐露させたかった。 「う、ううっ……」 恨めしそうな目で非道を責める祐一は、それでも小さな声で呟いた。 「止め……ないで」 「聞こえないわ」 「止めないで下さい。もっと僕を……苛めてください」 子宮の奥にズーンという重苦しい震動が響き、罪悪感とは裏腹に燃え盛る欲情の火の手が、ものすごいスピードで背筋を這いあがってきた。 焼きごてを押しつけられたように腰の後ろが熱くなり、失禁をもよおす震えが全身に走る。幸いショーツを濡らしたのは尿でなく、膣洞で人肌に温められた愛液だったが、ほとんどお漏らしでもしたみたいに、薄っぺらなクロッチはおろか、パンティーストッキングまで染みていくのをはっきりと感じた。 「よくできました」 込み上げる悦びを噛み締めつつ、肩を落した祐一を抱いて耳元でそっと囁いた。 「ふふふっ、苛めてごめんね。なんとなくわかってはいたけれど、どうしても祐くんの口から聞きたかったの」 「ひどいよ、先生」 「そうね。本当にごめんなさい」 額から頬と順番にくちづけた杏子は、許しを乞うように祐一の唇に接吻する。 絡め取った熱い舌先を優しく吸いながら、再びペニスに手を添えて、今度はゆったりと愛撫を施した。 「ああ……先生……気持ちいい……」 とろんとした目になって、祐一が身体を預けてくる。甘い吐息は首筋を焼き、熔けた内臓が股間からずるりと抜け落ちるような思いだった。 「男の子は放っておくと溜まってしまうんだものね。いいわ、これからは授業が終わるたびにきっちり私が抜いてあげる。そうすればすっきりして、オナニーなんてしなくて済むでしょうし、勉強にも集中できるでしょう?」 「ほ、本当……ですか?」 おずおずと訊いてくる祐一に、杏子はこくりと頷いた。 「今日はこのままイカせてあげる。私の手でいっぱい出しなさい」 手のピストン運動を徐々に早め、片腕できつく祐一を抱き締めた。指にどくどくと感じる脈動から察して、そう長くはもちそうもない。ハンカチを準備している暇など無いし、何より祐一の熱い精液を直接身体で感じたかった。 「ああん! もう我慢できない! 僕、先生の手でいっちゃう!!」 祐一の腰が鋭く痙攣した。杏子は素早く唇をペニスに被せ、勢いよく噴き上げた精の迸りを口腔で受け止める。ビュクン、ビュクンと舌の上に吐き出される精液はとても濃くて苦しょっぱく、飲み下すたびに痛いくらいの熱さで喉を焼いた。 力無く崩れ落ち、レイプされた少女のようにすんすん泣き出した祐一を抱き締めると、杏子は精液臭い自分の吐息に軽く咽せながら、唇に残る白濁した雫を舌先で丁寧に舐め取って、さも満足気に飲み下した。 |